大楠の主
家と家に挟まれた、狭く急勾配のきつい坂道を登る。その途中には、いくつもの墓石と、かつての戦争で戦死した兵隊の墓があった。すでに廃寺となった建物も、廃屋化した建物も数多くある。
――一体、昔は何人の人がここに暮らしていたんだろう。
ひしめき合うように多くの家が並んでいるところや墓の数を見れば、昔はかなりの人数がこの小さな島に身を寄せ合っていたに違いない。
――過疎化か……。
その響きに、妙な虚しさを覚える。
栄清は息を切らしながら坂道を登ると、三叉路に差し掛かった。
「……大楠は、下か」
三叉路の内、下り坂になっている道の先に大楠があるようだ。
栄清は迷わずその道に進み、時折足を取られて滑りそうになりながら、坂を下っていく。そしてほどなく、下り坂の途中でやけに視界が開けた場所に出た。
栄清が顔を上げると、視界いっぱいに大楠の全貌が見え、思わず足を止めて息を飲んだ。
「……凄い」
大人が一人腕を伸ばしても届かないほどの太い木の幹。上に伸びるだけではなく、横へと手を広げたように伸びる太い枝。生い茂る緑の葉は風に揺れて、心地よい葉音を立てている。木の根元に生い茂る緑の草は絨毯のようにさえ見えた。
まるで、そこだけが空気が違う、別世界のような不思議な空間だった。
栄清はその大楠に目を向けたまま、ゆっくりと坂道を下り、赤い鳥居の間近まで歩み寄る。
まさに圧巻だ。言葉が出ない。
見上げるほどに巨大なその楠は、傍にいるだけで心の内側から浄化されるような神々しさを感じた。
木の葉の隙間から光る太陽が幻想的で、思わず感嘆の息が漏れる。
「……樹齢千二百年、と言うだけはあるな」
その時、大楠の幹の傍に建てられていた小さな祠の影に、何かが動く気配に気づいた。
栄清は、眉間に皺を寄せてそちらを見ると、それはゆっくりとその場に立ち上がった。
「!?」
祠の影から立ち上がったのは、一人の男性だった。
栄清は思わず周りを見回す。大楠の周りには柵が設けられており、中には立ち入れないようになっているのにも関わらず、男性は大楠の木の根元に平然と立っている。しかも驚くのは、一般人とは違う姿をしていることだ。
着物を纏い、長い髪を頭の上で結い上げている。見た目、栄清と同じくらいの年代のようにも見えるが、同じ年齢ならばなおの事分別がついていてもおかしくはない。もしくは、ここの手入れを任されている島民かとも思ったが、どうも様子がおかしい。
「ちょ、ちょっと、そこの人。ここ、立ち入り禁止ですよ」
そう声をかけると、男性は初めて栄清に気付いてこちらを振り返り、驚いたように目を見開いた。
『……お主、俺の姿が見えるのか!?』
「……は、え?」
言葉は分かる。だが、男性が発する声はどこかエコーがかかったかのように滲んだ声に聞こえる。
栄清が戸惑ったような声を上げると、男性は祠の傍から大急ぎでこちらに向かって歩いて来た。
『俺を見ることが出来る人間に会うのは、久し振りだ!』
「……」
唖然としている栄清の顔を見た男性は、あっと短く声を上げ小さく咳払いをする。
『これは、かたじけない。俺は藤原平助と申す。お主、名は?』
そう訊ねられ、栄清はぎこちなく周りを見回してしまう。
今この場にいるのは栄清しかいない。そして今目の前で名乗った武士のような身なりの男は、間違いなく自分に向かって話しかけているのだと分かると、困惑した。
――ゆ、夢か? 何が起きてる……?
言葉が出ない。
よく見れば、平助の下半身はあの大楠と同化している。その顔は青白く、肌質は木肌そのもののように見えた。開かれた目は木のうろのように黒く落ち窪み、時折チカチカとその闇の中で光るものがある。
どこからどう見ても、常人じゃない。
見てはいけないものを見てしまっている……。
栄清は、血の気が引いていく感覚を覚えた。
――霊感はない、はず……。今まで一度もそういった類のものは、見たことも感じたこともないんだが……。
そう思いながらぎこちなく視線をそらし、その場から離れようと体を動かすと、途端に肩をがっしりと掴まれ、意図せず飛び上がってしまった。
『……貴様、名も名乗らずに立ち去ろうなどと、無礼千万』
ぐっと顔を近付け、じろりと睨みつけてくる平助に、栄清は恐怖のあまり息を飲んだ。と、同時に、老婆の言葉を思い出す。
『この島の守り神みたいなものね』
その言葉通りなら、今見えている平助はこの大楠の主ということになる。その神様を前に、神様には名乗らせておきながら、手を合わせることも名乗ることもせずに立ち去ろうとするのは、礼儀を欠いていると言ってもいい。
「わ、わ、私は、渡栄清と申します」
『ほう、栄清とな? お主、この島の住民ではないな?』
「……そ、そうですが」
肩を掴んでいた平助の指は、乾いた木の枝のように硬く、動くたびに小さく軋む。その指が離れていくことに、栄清はほっと胸を撫で下ろした。
平助は腕を組み、じっと栄清を見据えるとふっと息を吐いた。
『島の人間に挨拶して来いと言われたのだろう?』
「あ……はい」
『お主も、色々と思うところがあるようだな』
「……」
『まぁよい。栄清、覚えたぞ。お主、またここへ来るか?』
正直、ここへはただ挨拶をしに来ただけで、もう一度来る用事はない。その問いに、答えられるとすれば、「その内に来るかもしれません」としかないが、その言葉を言うのがなぜか憚られた。
「……ど、どうでしょう」
苦し紛れにそう答えるのが精いっぱいだった。
しかし平助はその言葉が納得できなかったのか、ぴくっと表情を動かし、深いため息を吐いた。
『……いや。お主のような無礼者は、これまで見たことがない』
「……は?」
『供物の一つも持たずに挨拶だけに来るとは……。しかも手も合わせず言われなければ名乗りもしないとは……いやいや、何とも失礼極まりない』
栄清はその言葉に苛立ちを覚える。
だが、平助の言っている言葉に、間違いはないようにも思えた。
「別に、私は今日ここに来るつもりで来たわけじゃない」
『そうか。なら、また来るな?』
「……は?」
ニヤリと笑う平助に、栄清は唖然としてしまう。
『来るだろう? お主、また来る顔をしている』
「来るとは言ってない」
『いいや、来る。しかも律儀に供物も抱えて来る』
ニヤニヤと笑う平助に、栄清は理不尽さを覚えた。




