喪失
「離婚してください」
静かに目の前のテーブルに差し出されたのは、すでに妻側の欄が全て埋められた離婚届と、銀色に輝く結婚指輪だった。
「もうあなたとやっていく自信がありません」
「なん……」
突然のことに、言葉に詰まる。
妻――有希子の顔を見れば、彼女の顔は非常に険しかった。
離婚届を突きつけられた夫――渡 栄清は、有希子がそんな顔になる理由も、離婚に至る理由も理解できない顔を浮かべる。
そろそろ40歳に差し掛かる彼にとって、今の生活は順風満帆だった。これからも家族のために仕事に励もう。そう思っていた矢先のこの状況は、まさに青天の霹靂だった。
「そんな、突然……」
「突然? 本気でそう思っているの?」
栄清の言葉にかぶせるように、有希子はこちらを睨みつけながら苛立ちを込めた言葉を発する。
「本当に分からない?」
「分かるわけないだろう。何が不満なんだ? 俺は毎日お前や子供たちのために働いて来た。昇進だってした。生活に困るようなことは何一つ無かっただろう」
「えぇ、そうね。生活には困らなかった」
「なら、他に何があるって言うんだ?」
その言葉に、有希子は引き攣ったように口の端を引き上げて、乾いた笑みを浮かべた。
「……そういうところよ」
***
目が覚めた。
薄暗い部屋の中、壁掛けの振り子時計の定期的で無機質な音だけが、やけに部屋の中に響いている。
ぼんやりと見上げている天井には、木目が規則正しく並び、紐のぶら下がった電気の四角い傘と、ドーナツ型の丸い電球が見えた。
「……」
のそりと、衣擦れの音を立てて起き上がる。
畳の間に薄っぺらくなった敷布団だけで、体のあちこちが少々痛む。
栄清は布団から出て、締め切っていたカーテンを開いた。眩しい陽の光に一瞬目を眇めるが、すぐに視界はハッキリとする。
窓から見えるのは海だった。小さな漁船が、目の前の入り江から出ていく姿が見える。
栄清は深いため息を吐いた。
つい二日前、長年病気を患っていた母が亡くなり、小さな葬式を済ませ、まだ真新しい骨壺を昨日火葬場から持ち帰ったばかりだった。
「朝から嫌なもん、見たな……」
約十五年連れ添った有希子と離婚し、その直後に一人親の母が倒れ、家庭が壊れたことを悲しむ間もなく母の介護のために、東京から香川に帰って来て早六年。栄清は四十六歳になっていた。
――何も、ないな……。
家庭が無くなり、そして実家も無くなった。
この歳で初めて自分にはもう何もないのだと、気付いてしまった。
栄清は、テーブルの上に無造作に置いたままの母の遺骨を見て、苦い表情を浮かべる。
「……もっと、優しくしてやれば良かった」
たった一人の介護に疲れ、自分の時間も満足に取れないことに苛立って、何度母に冷たい言葉を浴びせ、乱雑な世話をしただろう。
母はそれでも何も言わず、ただじっとしていたことを思い出すと、今さらに胸が痛み、後悔が押し寄せてくる。
栄清は頭を抱え、力なく崩れるように窓際に座り込むと、滲み出る涙が頬を伝う。
介護から解放された安堵感と、皮肉にもそれを上回る虚無感。
栄清は、今になって初めて、当時有希子が言いたかったことが理解出来た。




