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願い事一つ、送り花  作者: 陰東 紅祢


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2/9

喪失

「離婚してください」


 静かに目の前のテーブルに差し出されたのは、すでに妻側の欄が全て埋められた離婚届と、銀色に輝く結婚指輪だった。


「もうあなたとやっていく自信がありません」

「なん……」


 突然のことに、言葉に詰まる。

 妻――有希子の顔を見れば、彼女の顔は非常に険しかった。

 離婚届を突きつけられた夫――わたり 栄清えいせいは、有希子がそんな顔になる理由も、離婚に至る理由も理解できない顔を浮かべる。


 そろそろ40歳に差し掛かる彼にとって、今の生活は順風満帆だった。これからも家族のために仕事に励もう。そう思っていた矢先のこの状況は、まさに青天の霹靂だった。


「そんな、突然……」

「突然? 本気でそう思っているの?」


 栄清の言葉にかぶせるように、有希子はこちらを睨みつけながら苛立ちを込めた言葉を発する。


「本当に分からない?」

「分かるわけないだろう。何が不満なんだ? 俺は毎日お前や子供たちのために働いて来た。昇進だってした。生活に困るようなことは何一つ無かっただろう」

「えぇ、そうね。生活には困らなかった」

「なら、他に何があるって言うんだ?」


 その言葉に、有希子は引き攣ったように口の端を引き上げて、乾いた笑みを浮かべた。


「……そういうところよ」


         ***


 目が覚めた。

 薄暗い部屋の中、壁掛けの振り子時計の定期的で無機質な音だけが、やけに部屋の中に響いている。

 ぼんやりと見上げている天井には、木目が規則正しく並び、紐のぶら下がった電気の四角い傘と、ドーナツ型の丸い電球が見えた。


「……」


 のそりと、衣擦れの音を立てて起き上がる。

 畳の間に薄っぺらくなった敷布団だけで、体のあちこちが少々痛む。


 栄清は布団から出て、締め切っていたカーテンを開いた。眩しい陽の光に一瞬目を眇めるが、すぐに視界はハッキリとする。

 窓から見えるのは海だった。小さな漁船が、目の前の入り江から出ていく姿が見える。


 栄清は深いため息を吐いた。


 つい二日前、長年病気を患っていた母が亡くなり、小さな葬式を済ませ、まだ真新しい骨壺を昨日火葬場から持ち帰ったばかりだった。


「朝から嫌なもん、見たな……」


 約十五年連れ添った有希子と離婚し、その直後に一人親の母が倒れ、家庭が壊れたことを悲しむ間もなく母の介護のために、東京から香川に帰って来て早六年。栄清は四十六歳になっていた。


 ――何も、ないな……。


 家庭が無くなり、そして実家も無くなった。

 この歳で初めて自分にはもう何もないのだと、気付いてしまった。

 栄清は、テーブルの上に無造作に置いたままの母の遺骨を見て、苦い表情を浮かべる。


「……もっと、優しくしてやれば良かった」


 たった一人の介護に疲れ、自分の時間も満足に取れないことに苛立って、何度母に冷たい言葉を浴びせ、乱雑な世話をしただろう。

 母はそれでも何も言わず、ただじっとしていたことを思い出すと、今さらに胸が痛み、後悔が押し寄せてくる。


 栄清は頭を抱え、力なく崩れるように窓際に座り込むと、滲み出る涙が頬を伝う。


 介護から解放された安堵感と、皮肉にもそれを上回る虚無感。

 栄清は、今になって初めて、当時有希子が言いたかったことが理解出来た。

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