伝承
息が切れ、冷たい汗が頬を伝い落ちた。
縦横無尽に生い茂る草木を掻き分ける、忙しない音が、夜の闇に響き渡る。
荒い息遣い。逼迫して張り詰める空気感。しかし、身の丈をゆうに超える草木が、気持ちとは裏腹に行く手を阻む足枷になっていた。
「……くそっ!」
短く、小さくそう呟いた瞬間、背後から甲高い笛の音が聞こえ、苦言を漏らした男は一瞬、動きを止めて振り返った。
「囲え! やつはまだ遠くまで行っていない。ここに逃げ込んだのは間違いない!」
その言葉を合図に、大地を踏みしめる幾つもの足音と松明の灯りがあちらこちらに蠢く。
――このままでは……っ!
追いかけてくる群衆から逃れるために、男は止めていた足を再び動かし、森の奥へと進んでいく。
手には刀を持ち、血塗られた羽織とボロボロの着物。体にも無数の傷を付けている彼の名は、藤原平助と言う。
平助は、もともと地方武士として海路管理に関わっていた。だが、塩飽内部で起きた争いに巻き込まれ、諍いが激しくなっていく内に、平助は海路の機密事項を外部に漏らした「裏切り者」としての汚名を着せられ、それまで手を組んでいたはずの塩飽水軍一派に追われる羽目になった。
全く身に覚えのない濡れ衣。だが、命が狙われ始めればそんなことはもはやどうでもいい。相手は確実に首を狙っている。だから、逃げるしかなかった。家族の待つ町の中ではなく、別の方向へ……。
平助は船を出し、闇に紛れて逃げ出した。海路も、島の位置も頭にすべて入っている。
松明の灯りを消して、月明かりだけを頼りに黒い海に漕ぎ出した平助だったが、相手は平助以上に海を知り尽くした塩飽水軍。平助の船などあっという間に看破され、瞬く間に退路を阻まれた。
何とか岩陰に身を隠しながら辿り着いたのは、一番西側に位置する、小さな島だった。
船を岩陰に乗り捨て、山に飛び込み、攪乱しようと思ったが、やはり塩飽水軍の目は誤魔化しきれない。
「……っ!?」
山の高い位置まで駆け登ったところで、平助は月明かりの下に晒される。目の前には真っ白な花が一面に咲き誇り、海面が月光に照らされて輝き、なんとも言葉にし難い景色が広がる。その情景に、ほんの束の間、平助は息を飲んだ。
――ここはよもや、極楽浄土か……?
無意識に一歩足を踏み出すと、地面から浮き出た木の根に足を取られて体が大きく傾ぎ、あれよあれよと言う間に平助は目下の崖下に滑落する。
「……!!」
もうダメだ。そう思った。
細かな木の枝をへし折り、草を激しく揺らしながら地面に落ちた平助は、運よく多く茂った草のおかげで軽傷で済んだ。が――万事休す。下から、左右から登ってくる塩飽水軍の足音と松明の火に、いよいよ逃げ場がないと確信する。
――きよの……おつる。
家族を想い、平助は歯を食いしばった。
――ここまでか……っ!
足を擦るように後ろに引くと、背中に大きなものがぶつかる感覚に顔を上げた。
平助の背後には見上げるほどの大きな巨木――大楠が天に向かって大きな枝葉を広げ、荘厳で圧倒的なその存在感を示していた。
平助はその巨木に一瞬言葉を飲んだ。だが、すぐに我に返ると、大楠に向かい声を上げる。
「楠の大木よ、まこと生あるものなれば、われを助け給え!」
四方から迫ってくる足音が、すぐ傍まで来ている。
平助がぐっと唇を噛んだ――その瞬間。
大きく大楠の枝葉を揺らしていた空気が止んだ。そしてメキメキ……と軋むような音を上げたかと思うと、大楠の幹が開いていく。
「……!」
驚きに目を見張っていた平助は、開かれた幹の中に吸い込まれるように足を踏み出す。すると開いていた木が、声を上げる間もなく一気に平助の体をその体内へと引き込んだ。その直後、塩飽水軍は大楠の前に現れ、幾つもの松明の明かりの下、険しい男たちの顔が夜の闇に浮かび上がる。
「どこへ行った!」
「逃げられる場所などないはずだが……」
「まだこの辺りにいるはずだ! 探せ!」
平助を追い詰めたと思っていた塩飽水軍の男たちは、大楠を前にどこにも見当たらない平助を、血眼になって探し始める。だが、どこにも彼の姿が見えないことに、彼らは別の場所へと移動し始めた。
雑踏で煩かった大楠の周りは、やがて水を打ったように静まり返る。
ただ、大楠の木の根元がひそかに鼓動を繰り返していた……。




