第4話 クエスト受注
組合の扉を押し開けると広間の空気は、さっきより少し重くなっていた。
朝の漁から戻った船が増えて、潮と塩の匂いが天井近くに溜まり始めている。
依頼を貼り出す木の板は入口の脇、窓口の隣に立っていた。
近づいてみると、札は思ったより少ない。
釘で打ちつけられた紙が二枚だけだ。
一枚は墨の色が濃く、はっきりしていた。
『依頼 新鮮な魚を三匹、状態良く納品せよ』
もう一枚は、墨が灰色に霞んでいた。
『一夜干しを一つ仕上げ、納品せよ ※前の依頼の達成後に開放されます』
外の広場では、杖を持った連中が今ごろ冒険者ギルドの受付に群がっているのだろう。
討伐、護衛、採掘、調査。
依頼の数は、きっとここの比ではない。
だが、この板には漁師と魚を加工する人間だけの札が貼られている。
俺にとっては、それで十分だった。
濃い方の札に指を触れると、詳細が視界に展開した。
『依頼:新鮮な魚を三匹、状態良く納品せよ
場所:渚の間
報酬:100クレジット/簡易鑑定ツール
評価:鮮度、損傷率、下処理の精度』
報酬の欄の、簡易鑑定ツールの文字を少しだけ長く見た。
今の鑑定は、名前と品質の記号しか見せてくれない。
それを補う道具なら、悪くない。
『この依頼を受注しますか』
迷う理由はなかった。
俺は『はい』に触れた。
紙が淡く光って、視界の隅の依頼欄に一行が加わった。
「お受けになりましたか」
窓口から、声が飛んだ。
深緑の瞳の職員が帳面を閉じて、こちらを見ている。
「受注された方には必ず、ご説明をしています。
こちらへ」
俺は窓口へ寄った。
「評価の中身を、お伝えします。
納品された魚は、三つの項目で見ます。
鮮度、損傷率、下処理の精度です」
職員は、指を折りながら、淡々と続けた。
「鮮度は、獲れてからの時間と保たれた温度で決まります。
損傷率は、傷や潰れの少なさです。
下処理は、血の抜け具合と鰓や内臓の扱い。
三つとも、数字に近い形で見ています」
「下処理まで、見るんですか」
「見ます。
同じ新しさの魚でも、血が残っていれば品質は落ちます」
その一言に、俺は思わず顔を上げた。
ここでは、仕事の中身が評価される。
獲った数でも、倒した強さでもない。
仕事の質だ。
「もう一つ、大切なことがあります」
職員は、声の高さを少しだけ落とした。
「お手元の魚は、持ち物にしまっても傷みます」
「持ち物の中でも、ですか」
「はい。
持ち物の中は、持ち主のいる場所の空気と同じです。
背負い袋を、思い浮かべてください。
ここは、外です。
外の暑さの中で、魚は傷みます」
俺は、頭の中で勘定を始めた。
持ち物の中も、外気と同じ。
袋に入れた瞬間から、魚は気温と同じ速さで傷んでいく。
氷も、冷蔵庫もない。
晩夏の日差しの下で釣り上げてから納品までの間、魚を保たせなければならない。
それが、この依頼の見えない難しさだった。
「氷は、手に入りますか」
「市場の氷屋で、麻袋に入った砕氷を売っています」
視線を落として、視界の隅の所持金の欄を確かめた。
ゼロのままだ。
「……今は、買えないな」
小さく呟くと、職員は少しだけ目を細めた。
「貸出の木桶なら、無料です。
石段の下に、積んであります。
使い終えたら、組合へお返しください」
俺は、頭を下げた。
氷はなくても、水と桶なら使える。
海水に浸ければ魚は外気にさらされるよりは、ましに保てる。
理屈では、分かる。
ただ、どこまでましなのかは試してみなければ分からない。
「もう一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「倒した時に、自動で落ちる素材と、自分で処理した魚は、別物ですか」
「別物です」
職員の答えは、迷いがなかった。
「渚の間の魚は、水の中では襲ってきます。
討伐すれば、素材が自動で落ちますが品質は低くなります。
状態良く、というご指定ですので、ご自身の手で処理なさったものを、お納めください」
それから、職員は一つだけ付け足した。
「ただ、陸に揚げた魚は急に力が抜けます。
釣り上げて岸に上げてしまえば危険は、ほとんどありません」
「分かりました」
窓口を離れる前に、ふとナビの青い球体が肩の横で静止しているのに気づいた。
『依頼の詳細は、いつでも視界の隅から確認できます』
案内は、それだけだった。
球体が、坂の方へ一度少しだけ傾いた気がした。
だが、それも、すぐに平らな動きに戻った。
組合の裏手から、海へ降りる石段が続いていた。
石は、長い年月で擦り減り中央が浅く窪んでいる。
一段ごとに、潮の匂いが濃くなる。
段の途中から、音が変わった。
街の騒がしさが遠のき、波が岩を舐める湿った音だけが近づいてくる。
石段を降りきった先、波打ち際の手前に木の桶が十数個、積み重ねてあった。
脇の杭に、板札が打ってある。
『貸出品 木桶(使用後は、組合へ返却すること)』
一つ取り上げて、縁を撫でた。
内側に塩が白く、うっすらと結晶している。
使い込まれた桶だ。
この港で働く漁師たちが、何年も魚を入れてきたのだろう。
腰から、小刀を抜いた。
視線を合わせると、文字が浮かんだ。
『解体用小刀 品質:D』
背から外した竿にも、同じ操作をした。
『簡易釣竿 品質:D』
竿の先には、疑似餌が一つ結ばれている。
餌ではない。
魚が餌と見間違える、作り物だ。
その形で、魚を寄せるように作られているのだろう。
小刀の刃を、親指の腹に、そっと当てた。
刃先が、指にすんなり食い込まない。
引っかからない。
研ぎが甘い。
これでは脳の薄いところに刃を入れる時、余計な力が要る。
その力のぶれが、魚の身を傷める。
替え刃は、購買に並んでいたが今の俺には買えない。
「依頼を一つ、こなしてからだな」
口に出して、苦笑した。
魚を扱う前の準備のほうが、よほど長い。
それでも、悪い時間ではなかった。
手の中の道具を、一つずつ確かめている間は事故の夜のことを思い出さずに済む。
石段の下に広がっていたのは思っていたより、ずっと穏やかな海だった。
渚の間と呼ばれるこの浅場は、水深が二十メートルを超えない。
岩場と砂地が入り組み潮溜まりが、あちこちに青く残っている。
透き通った水の底で、海藻が揺れていた。
水面は、朝の光を細かく砕いて反射させている。
俺は桶を持って、岩の端まで歩き海水を汲んだ。
ずしりと、重い。
縁まで満たした桶を、足元に据えた。
そのとき、視界の端に銀色が走った。
水の中だ。
岩の影から一つ、二つ、細長い影が、よぎる。
背が光る。
尾が、水を切る。
ここが、魚の通り道だ。
視界の隅の時刻は、九時を少し過ぎていた。
疑似餌を手に取り、水面へ静かに投げた。
糸が伸び、細い波紋が広がる。
竿を握った右手に、自然と力がこもった。
朝の日差しが、早くも背中に、じりじりと貼りつく。
持ち物の中の空気は、外と同じだ。
魚が掛かった瞬間から、時間の勝負になる。
息を、一度だけ、深く吸った。
浮かんだ魚影が、疑似餌に、ゆっくり寄った。
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