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第5話 渡来の岸

 竿先が、水へ引き込まれた。


 掌に、重みが走った。

 糸が鋭い音を立てて水面を切り、横へ滑っていく。

 引き戻そうとすると、逆に引かれる。

 魚が、こちらへ向かって突っ込んでくるのだ。

 水の中のこいつは、獲物ではない。

 敵として作られている。


 足を踏ん張り、竿を立てたまま岩の端まで退いた。

 足元の潮溜まりに、魚の頭がざぶりと浮いた。

 銀色の背に青い縞が薄く走り、突き出した下顎が疑似餌の針を咥えたまま歯を剥いた。

 噛みに来た。


 俺は、竿を一息に引き上げた。


 濡れた岩の上で、魚は一度だけ大きく跳ねた。

 尾が岩を打つ。

 その次の瞬間、水中で見せていた強さが嘘のように抜けた。

 尾の動きが鈍り、鰓蓋だけが大きく開いては閉じる。

 陸に揚げた魚は急に弱る。

 職員の言ったとおりだ。


 視線を合わせた。


『渚スズキ 品質:D』


 ここで小刀を振るって、魚の命を削り切ってしまえば素材が自動で落ちる。

 品質は、EかDだ。

 依頼が求めているのは、そういうものではない。

 生きたまま陸に揚げ、自分の手で止める。


 左手で魚の頭を押さえた。

 鱗が、ぬめりを帯びて掌に張りつく。

 右手の小刀の先を、目の後ろへ当てた。

 頭蓋の、骨の薄い一点だ。


 力を込めた。


 刃が、滑った。

 鱗を削っただけで、骨に届かない。

 魚が暴れ、尾が俺の手首を打った。

 刃が甘い。

 こういう刃で、この一点に刺すには余計な力が要る。

 そしてその力は、魚の身を傷める。


 息を吐いて、角度を変えた。

 目の後ろの、骨の薄い窪みに刃先を斜めに当て体重を刃の先ではなく手首の付け根に乗せる。


 今度は、入った。


 魚が一度、背骨を震わせた。

 そして、力が抜けた。

 目の光が、すっと消えた。


 父の締め方を、思い出していた。

 調理場でスズキの頭に迷いなく小刀を入れていた、あの締め方だ。

 一度で、締めていた。

 俺のは、二度かかった。

 その差が、いまの俺と父の腕の差だ。


 続けて、鰓の付け根へ刃を入れた。

 太い血管を、切る。

 尾の付け根にも一筋、切り込みを入れる。

 それから、魚を海水を張った桶へ頭から沈めた。


 水が、赤く濁った。


 尾を持って、水の中で魚を前後に振る。

 血が細く伸びて、水に溶けていく。

 水が真っ赤になるたびに、桶の水を捨て波打ち際から汲み直した。

 三度、替えた。

 四度目の水は、ほとんど濁らなかった。


 鰓を指で開いて、確かめる。

 鮮やかな赤だった鰓が、くすんだ桃色に変わっている。

 ここまで来れば、手で抜ける血は抜けたということだ。

 魚の尾を持って、頭を下に向け立てて水を切った。


 視線を合わせる。


『渚スズキ 品質:B』


 小さく息をつく。

 Dから、Bまで来た。

 名前と記号しか出ない鑑定が、初めて俺の仕事を数字にしてくれた。


 一尾目の頭には、少し大きな傷が残っていた。

 二度目の刃の入りで、骨を割りすぎたのだ。

 二尾目からは、最初から手首の付け根で押した。

 三尾目は、一度で入った。

 四尾目も、一度で入った。


 四匹を、桶の海水の中に並べて立ち上がった。

 視界の隅の時刻は、十時を回っていた。




 石段を上がり、組合の広間に戻った。


 桶を窓口の脇へ置くと、深緑の瞳の職員が帳面から顔を上げた。


「三匹、納品します」


 俺は、桶の中から三匹を取り出してカウンターへ並べた。

 四匹目は、桶の中に残した。


 職員は、一匹ずつ掌を当てて確かめた。

 鰓を開き、目を覗き、腹を指で押す。


「鰓の色が、三匹とも揃っています。

 血が、よく抜けています」


 彼女は、一匹目の頭に目を留めた。


「この一匹だけ、頭の傷が少し大きいですね。

 ですが、許容の範囲です」


 その指摘を、そのまま手帳に書き留めた。


『初期依頼①[新鮮な魚を三匹、状態良く納品せよ]を達成しました』

『評価:鮮度B/損傷B/下処理B』

『報酬:100PANACEAクレジット、[簡易鑑定ツール]を獲得しました』


 視界に、報酬の文字が灯った。

 続けて、アイテム欄に小さな板が加わった。

 真鍮の枠に、丸いレンズがはめ込まれている。

 起動して桶の中の四匹目に、かざした。


 [名称:渚スズキ]

 [品質ランク:B]

 [分類:魚類/白身]


 名前と、ランクと分類。

 それだけだ。

 それでも、分類が見えるようになった。

 魚類、白身。

 ヒスタミンが出にくい魚だということが記号の下に、ひとつだけ確かめられた。


「そちらの一匹は、納品なさらないのですか」


 職員が、桶を覗いて訊いた。


「一夜干しに使います。

 依頼板で、次の依頼を見ました」


 そう答えてから、俺は少しだけ迷った。

 もう一つ、訊いておくべきことがある。

『寝かせる』という言葉を口にしようとすると胃の奥が冷たくなる。

 梶原さんの皿の上の琥珀色の身が、まぶたの裏を一瞬よぎった。

 それでも、訊かなければ始まらない。


「もう一つ、教えてください。

 魚を寝かせて熟成させる依頼は、ありませんか。

 温度を決めて寝かせれば、旨味が変わるので」


 声は、思ったより平らだった。


 職員は、瞬きを一度した。

 それから、桶の四匹目に掌をそっと当てた。


「熟成の依頼は、掲示にありません。

 これまで、そういう依頼を出す方も、いなかったのでしょう」


「そうですか」


「査定上、この一匹は鮮度低下中と出ます。

 一夜干しになさるなら、お早いほうがいいでしょう」


「分かっています」


 広間の空気が、ざわりと動いた。

 依頼板の前にいた新規の戦士が三人、こちらを振り向いていた。


「熟成だってよ。

 魚を、寝かせて?」


「腐るだろ、普通に」


「刺身にして、新鮮なうちに食えよ。

 そのほうがバフも乗る」


 笑い声が広間の天井に当たって、割れた。

 悪意があるわけではない。

 ただ、当たり前のことを当たり前に笑っているだけだ。

 俺は、反論しなかった。

 言葉で説き伏せても、何も証明できない。

 結果で返すしかないことは、あの事故で嫌というほど思い知らされている。


 職員は、笑わなかった。

 否定もしなかった。

 帳面に、何かを一行だけ書き足してから静かに言った。


「桶は、まだ、お使いになりますか」


「もう少し、借ります」


「分かりました。記録しておきます」


 その短い応答に、俺は少しだけ救われた。


「依頼①の達成で、次の依頼が開放されました。

 依頼板を、ご覧ください」


 窓口を離れて、板の前に立った。

 灰色に霞んでいた札の墨が濃く、はっきりと戻っている。


『依頼:一夜干しを一つ仕上げ、納品せよ

 場所:石段の民区

 報酬:150クレジット

 開放:簡易乾燥棚の利用権

 備考:加工指導技師の確認印が必要です』


 指で触れると、『この依頼を受注しますか』と出た。

 俺は、迷わず『はい』に触れた。


 そのとき、板の反対側の長椅子から声が聞こえてきた。


「……聞いたか、今の。あの漁師」


 積み荷を広げた二人連れが、並んで腰掛けていた。

 日に焼けた肌の荒人と、人間種の男。

 行商人だろう。

 荷の脇に、使い古した革の鞄が積んである。


「ああ。妙な温度で、何日も寝かせるとか言ってやがった」


 荒人の男が、鼻で笑った。


「獲れたての魚を売らずにな。

 熟成で旨味が変わる、だとよ」


「腐らせて捨てるようなもんだろう。

 市場の評価も、散々になるぜ」


「ああ。ま

 あ、話の種にはなる。

 緑十字の方に寄ったら、あそこの職員にでも、教えてやるか」


 人間種の男が、笑いながら、荷を持ち上げた。


 違う、と思った。

 俺が訊いたのは熟成の依頼がないか、ということだけだった。

 それがいつの間にか、「妙な温度で、何日も」になっている。

 温度を決める、とは言ったが日数など口にしていない。

 噂は、人から人へ渡るたびに形を変えるらしい。

 訂正に行く気は、なかった。


「そういや、緑十字の方といえば」


 荒人の男が、思い出したように言った。


「草地のあたりにも、妙なのがいたぜ。

 薬草採取人でな。

 雑草を一本ずつ抜いては、メモを取ってやがる」


「雑草を、一本ずつ?」


「そう。

 戦いもせずにな。

 朝から、ずっとだ」


 二人は、顔を見合わせて肩を揺らした。


 俺は、依頼の札から目を上げなかった。

 それでも、胸の中が少しだけ温かくなった。

 世間の物差しから外れた妙な奴が、この港の端にも一人いるらしい。

 雑草を一本ずつ抜いては、記録している奴が。

 顔も知らない。

 名前も知らない。

 それでも、自分だけではないと思えた。


 行商人たちは、荷を担いで扉の向こうへ消えた。


 俺は、桶の前にしゃがみ込んで四匹目を覗き込んだ。


 視界のメニューの隅に、白紙のメモ欄がある。

 それを開いて、手帳の代わりにする。

 指で、文字を打ち込んだ。


 死後、四十分。

 目、澄む。

 鰓、くすんだ桃色。

 指で押す。戻る。

 匂い、海。血の匂い、ほぼ無し。

 品質、B。


 重さは、量る道具がない。

 温度も、量る道具がない。

 手に取れるのは時間と、色と、弾力と、匂いだけだ。

 それでも、書く。

 測れないものは、測れるものから確かめていくしかない。


 桶を持ち上げた。

 四匹目は桶の中で水に半分、浸かっている。

 氷も、冷蔵庫もない。

 獲れた魚を鮮度が落ちる前に、どう保たせるか。

 その答えを俺は、まだ持っていなかった。


 だが、まずは依頼②だ。

 この四匹目を、一夜干しにする。

 石段の民区の簡易乾燥棚で、手順を確かめる。


 扉を押し開けて、外へ出た。

 午前の光が、石畳に白く貼りついている。

 坂の上に、石段の民区の屋根が段々に重なって見えた。

[SYS_LOG::MITRA_CORE_OCEAN]

[EVT_TRACE::SESSION_01_FIRST_CATCH]

├─ FISH_CATCH :: NODE_UID_7012_MINATO / SPECIES=[NAGISA_SUZUKI] / N=4 / INIT_RANK=D

├─ PROC_EXEC :: BRAIN_SPIKE + BLEED_OUT / N=4 / RESULT_RANK=B (N=4)

├─ BLEED_CHECK :: GILL_COLOR=DULL_PINK / WATER_CHANGE=3

├─ QUEST_CLEAR :: Q01_FRESH_FISH_X3 / EVAL=[FRESHNESS=B / DAMAGE=B / PREP=B]

│ ├─ REWARD_GRANT: +100_CREDIT / TOOL [SIMPLE_APPRAISAL_TOOL]

│ └─ NPC_CLERK_EVAL: NO_OBJECTION

├─ QUEST_QUERY :: QUERY=[FISH_AGING_QUEST_EXIST] / RESULT=NONE / WITNESS=[PLAYER_x3 / AGENT_NPC_MERCHANT_x2]

├─ ITEM_APPRAISE :: TARGET=[NAGISA_SUZUKI_x1] / STATUS=FRESHNESS_DECLINING / RANK=B

├─ CROSS_SIGNAL :: PHARMA_DOMAIN_RUMOR_PARSED

│ ├─ SOURCE_AGENTS: AGENT_NPC_MERCHANT_01 (ARABITO) / AGENT_NPC_MERCHANT_02 (HUMAN)

│ └─ PAYLOAD: "HERB_COLLECTOR_ANOMALY"

├─ RUMOR_DISTORT :: ORIGIN=NODE_UID_7012_MINATO / PAYLOAD=FISH_AGING_AUTOLYSIS_CONTROL / DISTORT_LEVEL=MID / DEST=[GREEN_CROSS_BRANCH]

├─ QUEST_ACCEPT :: Q02_ONE_NIGHT_DRIED / UNLOCK=DRY_RACK_ACCESS

└─ LOC_UPDATE :: ZONE_MEBIUS_L0 [TORAI_SHORE_UNION_HALL]

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