第3話 潮幸組合、受付
『まず、潮幸組合への登録をお勧めします。
潮幸組合は、プレイヤーが結成する民間のギルドとは異なる公式の組合です。
登録を済ませると、市場と依頼を利用できるようになります』
肩のあたりを漂う青い球体が坂の上へ向かって、ほんの少しだけ前に出た。
案内の声は、昨日読んだ取扱説明書のように平らだった。
「その前に、一つ試していいか」
俺は桟橋の端に目を向けた。
木箱を肩に載せた男が、荷を石の台へ移している。
蓋の隙間から、青みを帯びた銀色の背が覗いていた。
鯵によく似た魚だ。
さっき匂いで俺を呼んだのは、あの箱だ。
『鑑定の基本操作です。
対象に視線を合わせ、意識を向けてください』
ナビがそう言った。
俺は箱の上の一尾に、焦点を合わせた。
文字が、魚の輪郭に重なるように浮かんだ。
『ナギサアオ 品質:D』
それだけだった。
鯵によく似た魚は、この世界では、そういう名前で呼ばれるらしい。
俺は、もう一度見直した。
鰓の色も、血の残りも、死後どれだけ経ったかも、何も出ない。
出るのは、名前と大雑把な品質の記号だけだ。
目で見て、鼻で嗅いで、指で押して、ようやく分かる情報を、この画面は一つも肩代わりしてくれない。
数字が、ない。
「……分かった」
俺は視線を切った。
機能に頼れないなら、感覚で補うしかない。
逆に言うと魚を扱ってきた長年の癖は、ここでもそのまま使えるということだ。
*
坂を一つ上がった先に、潮幸組合の建物はあった。
石造りの平屋で、入口の上に錨と波を組み合わせた木の看板が掛かっている。
扉は両開きの厚い板で、押すと蝶番がゆっくりと鳴いた。
広間は、思ったより広かった。
天井が高く、梁の間に干した魚の束が吊られ潮と塩と古い木の匂いが混ざって溜まっている。
人の姿は少ない。
大通りの方へ駆けていった連中の足音が、ここまでは届かない。
奥の壁には、鉄の扉が見えた。
扉の下の隙間から、薄い冷気が床を這っている。
冷凍貯蔵庫が奥にあるのだろう。
覚えておく。
入口の脇には、長いカウンターがあった。
その向こうに女性が一人、帳面を繰っている。
深緑の瞳の、落ち着いた顔立ちの人だった。
海人だろう、と見当がついた。
種族の違いは見た目には、ほとんど現れない。
「いらっしゃいませ。
潮幸組合、渡来の岸支部です。
登録は、初めてですか」
「初めてです」
俺が答えると、職員はうなずきカウンターの下から一枚の羊皮紙を取り出して広げた。
「潮幸組合は、魚介の取引と依頼の仲介を担う場所です。
登録をなさると、市場の利用権と依頼掲示板の閲覧権が付きます」
「冒険者ギルドとは、違うんですか」
俺が訊くと、職員は羊皮紙の端を指で押さえたまま答えた。
「別のものです。
ギルドは、プレイヤーの方々が結成する民間の組織です。
所属なさった方は、頭上にマーカーが付きプレイヤーだと周囲に分かるようになります。
お名前や所属も、そこに表示できます。
ここは公式の窓口ですので、所属を縛るものではありません。
取引の場を、お貸しするだけです」
そう言われて、肩の力が一つ抜けた。
「手を、この上にかざしてください」
俺は右手を、羊皮紙の上に翳した。
掌の下で、繊維の間から墨が滲むように文字が浮かぶ。
まず『氷温』。
その下に『漁師』。
羊皮紙から、古い革と塩の匂いが立った。
『登録が完了しました』
視界の隅に、小さな通知が二つ灯った。
[市場利用権が解放されました]
[依頼掲示板アクセス権が解放されました]
「これで、お取引と依頼のお受けができます。
ご自身の技能一覧も、確認しておいてください」
職員は、それだけ言って帳面に目を戻した。
俺は、視線で技能の一覧を開いた。
・鑑定
・捕獲
・解体(簡易)
・神経締め ※使用には、針金系の締具が必要です
・血抜き
最初の三つは、全員に与えられる共通の技能だ。
残る二つが、漁師に付いた。
血抜きは、分かる。
鰓と尾の付け根の太い血管を切って、血を抜く。
父が、祖父が毎朝にやってきたことだ。
神経締めのほうは、少し違った。
針金を、脳の穴から背骨の管へ通して死後の筋肉の収縮を止める。
収縮が止まれば、ATPが減る速さが落ち魚が死んだことに気づくのを遅らせられる。
死後硬直が来る前の、あの束の間を長く引き延ばす技だ。
ただし、注意書きがある。
針金系の締具が要る。
今の俺は、それを持っていない。
「……手ぶらか」
小さく呟くと、職員が顔を上げた。
「購買は、そちらです」
彼女の視線の先に、棚が並んでいた。
釣具、替え刃、木桶、麻布。
針金が束ねて吊ってあるのも見える。
棚の隅には、麻袋入りの魚粉肥料も積まれていた。
買う手立ては、まだない。
依頼を受けて稼ぐのが先だ。
カウンターの隣には、依頼を貼り出す木の板が立っている。
紙が何枚か、釘で打ちつけてある。
そしてさらにその奥の裏口に、大きな樽が据えてあった。
近づく前から、匂いで分かった。
魚の頭と、骨と、内臓が、山のように積まれている。
鰓が白く濁り、目は曇っていた。
蝿が一匹、樽の縁を回っている。
樽の脇に、板札が打ってあった。
『残滓回収 魚の頭・骨・内臓・傷んだ魚は、こちらへ。
肥料として回収します』
傷みかけた魚の匂いが、鼻に刺さる。
ただ、ここでは捨てているわけではないらしい。
俺はしばらく、その樽の前に立っていた。
理由は、うまく言えない。
ただ、これだけの量が毎日出ることが妙に気になった。
「何か、お困りですか」
職員の声に、俺は首を振った。
「いえ。
……この樽は、どうなるんですか」
「日に二度、荷車で回収します。
乾燥と粉砕の魔道具にかけて魚粉の肥料にし、契約している農場へ定期的に納めています。
余った分は、各組合の購買でも売っています」
職員は、帳面から目を離さずに答えた。
「そうですか」
傷んだ魚が、肥料になって畑の作物を育てる。
そう考えると、樽の前から動く足は少しだけ軽くなった。
外に出ると、組合の前の広場に人だかりができていた。
石畳の中央に、小さな噴水がある。
その周りを、新規らしいプレイヤーが二重、三重に囲んでいた。
杖を持った若い男や、刺繍のローブを着た女たちが背伸びをして中心を覗き込んでいる。
誰の頭上にも、マーカーは出ていなかった。
輪の中心にいるのは、長い黒のローブを着た一人の男だった。
その男の頭上にだけ、マーカーが浮かんでいる。
マーカーには、名前が出ていた。
『ゼロ度』
名前の下に、小さく所属が添えてあった。
『七星魔導団』
さっき職員は、ギルドに所属するとマーカーが付くと言った。
広場にいる連中の頭上には、何も出ていない。
マーカーを出しているのは、この男だけだ。
今日、この世界を始めた人間ではないのだろう。
俺の名も、凍る手前の温度から取った。
この男は、名乗りの中に温度を背負っている。
男が、片手を持ち上げた。
噴水の水が、一瞬で白い柱に変わった。
吹き上げる水の形のまま、澄んだ氷になって音もなく固まる。
歓声が上がった。
「すげえ、一瞬で凍った!」
「もう一回、もう一回見せてください」
杖を持った若い男が、前のめりになって声をかけた。
男は、答えなかった。
氷の柱を、興味のなさそうな目で眺めたあと足元に置いてあった木桶を片手で引き寄せた。
「派手なのは、見ての通りだ」
頭上のマーカーに『ゼロ度』と出ている男は、低い声で言った。
「あれは、誰にでもできる。
やろうと思えば、誰でも凍らせられる。
……こっちのほうが、よほど骨が折れる」
桶の中には、海水が張ってある。
男はその上に、掌を触れない距離で翳した。
俺は、輪の外から桶の中を見ていた。
水面に、細かな氷の粒が浮かんでいる。
縁には、霜のような薄い膜が張りかけている。
だが、そこから膜は一向に伸びない。
粒も、増えない。
かといって、溶けて消えもしない。
凍る一歩手前で、時間が止まっていた。
水と氷が同じ量のまま、そこに居続けている。
出ていく熱と、入ってくる熱が一点で釣り合っているのだ。
温度計は、どこにもない。
それなのに、あの桶の水は確かに、その一点に保たれていた。
どれくらい、見ていただろう。
三分か、四分か。
氷の粒の数は、最後まで変わらなかった。
「なんで、凍らせないんですか」
杖を持った若い男が、首をかしげた。
「凍らせたほうが、絶対に派手なのに」
ゼロ度は、桶から目を離さないまま答えた。
「冷やすより、止めるほうが難しいんだ」
その言葉が、胸の中、一番深いところに落ちた。
熟成も、同じだ。
腐る前の凍る手前の、ある一点で変化を止めておく。
冷やすのは、誰にでもできる。
止めるのは、その点を知っている者にしかできない。
事故の夜の、あの数十分のずれを俺は止められなかった。
あの男は、名声のために氷を操っているのではない。
そう思った。
マーカーに出ている所属も周りの歓声も本人にはおそらく、どうでもいい。
この男の目は、桶の中の一点にしか向いていない。
声をかける材料は、まだない。
何も持っていない俺が近づいても、ただの新人だ。
俺は輪から一歩、静かに退いた。
石畳の上に、朝の日が、白く落ちていた。
潮風に、ツクツクボウシに似た鳴き声が混じっている。
審査まで、八十八日。
その数字を、もう一度、頭の中でなぞった。
広場に背を向け、組合の扉を俺はもう一度押し開けた。
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