第2話 PANACEA、最後の手段
視界を埋めていた暗闇が音もなく白に置き換わった。
ヘッドギアの内側で短い電子音が一度だけ鳴る。
肺に入ってくる空気には重さがあり足の裏は硬くて冷たい床を踏んでいた。
二階の六畳間の畳ではない。
何もない白い面だ。
指を開いて閉じる。
ここまで同じなのか、と思った。
同じなら、ここで見つけた数字は現実に持ち帰れる。
頭上に青白い光が集まり板状の画面がいくつも展開した。
『PANACEAへようこそ。ダイブを開始する前に、以下をご確認ください』
箇条書きの文字が一行ずつ浮かび上がる。
・ゲーム内の時間は、現実と等倍で流れます。
・連続ダイブは、一回につき最大十二時間です。上限に達すると、強制的にログアウトされます。
・脱水、循環障害、危険な心拍などを検知した場合も、自動でログアウトされます。意志の力で回避することはできません。
・ダイブ後は、最低六時間の休息を推奨します。睡眠、食事、排泄、軽い運動を行ってください。
俺は二度、同じ行を読んだ。
時間は等倍。
ゲームの一日は現実の一日だ。
氷が溶ける速さも魚が傷む速さも、ここでは現実の時計と同じ歩幅で進む。
ごまかしが利かないということだ。
審査の通知を受け取ってから、今日で二日が過ぎた。
残りは八十八日。
十二時間潜って六時間休むとして一日のうち六時間が現実の仕事に残る。
計算は合う。
だが、のんびりしている余裕はない。
俺は『同意する』の文字に指を重ねた。
『プレイヤーの生体特性(種族)を選択してください』
画面の中央に人の形をした光体が五つ並び、それぞれの横に初期値が表示された。
・人間種(汎用型の代謝モデル/補正なし)
・山人(低酸素耐性/登坂適性の補正)
・海人(浸透圧調整・脂質代謝/潜航適性の補正)
・荒人(寒暖差・乾燥への耐性/馴化適性の補正)
・森人(感覚処理の効率/追跡適性の補正)
亜人種は角やエラの生えた異形ではない。
特定の代謝経路が強く出た人間の表現型の違いにすぎない。
画面の端には親切にも「職業との相性」という小さな表示が出ていた。
海人の横に魚のアイコンが点滅している。
漁師になるなら海人を選ぶのが定石だ、と画面は言っている。
俺は人間種に触れた。
海人を選べば潜る深さの上限は伸びる。
浸透圧にも脂質の代謝にもボーナスがつく。
それは分かっている。
だが、そうしてはいけない理由が俺にはあった。
現実の客は人間種しかいない。
俺が数字で見極めようとしているのは、ある特定の体にとっての安全ではない。
誰の皿にも出せる安全の幅だ。
梶原さんの体は薬のせいで普通の体より分解の力が弱かった。
そういう体があることを俺は確かめなかった。
種族の補正を借りた体で測った限界値は補正のない体には通用しない。
結果を種族のせいにしたくない。
うまくいった時も、しくじった時も数字の責任は俺が引き受ける。
確定すると人間種の光体だけが残り他は静かに散った。
『初期選択職業の決定』
今度は、円環状のグラフが画面の周りを回り始めた。
全プレイヤーのリアルタイムの選択率だ。
[戦士:41.0%]
[魔法使い:31.0%]
[弓兵:12.5%]
[盗賊:6.5%]
[その他・生産系:9.0%]
誰もが剣を握り杖を振りたがる。
当然だ。
この世界は、そのために作られている。
生産系の項目に触れると、さらに細かな内訳が展開した。
[鍛冶師:2.8%]
[木工師:1.9%]
[裁縫師:1.5%]
[革細工師:1.1%]
[農民:0.5%]
[狩人:0.5%]
[漁師:0.4%]
[薬草採取人:0.3%]
数千万人の中で、〇・四パーセント。それが、俺が選ぼうとしている道の幅だった。誰も選ばないということは、誰にも笑われるということだ。それも分かっていた。魚を、獲れたその場で食べるのが最善だと信じている連中の前で、寝かせた魚の話をすれば、どうなるか。
漁師の項目に、説明文が浮かんだ。
『水辺の生物の捕獲と一次処理を担う。
選択時に共通技能および職業技能が付与されます』
一次処理、という言葉が胸の奥に引っかかった。
魚が死んでから人の口に入るまでの時間のうち最初の一手を握る仕事だ。
熟成は、その最初の一手が正しくなければ始まりもしない。
血を抜き、締め、空気から遠ざける。
祖父も毎朝その一手のために夜明け前に起きていた。
俺は迷わず『漁師』に触れた。
次の画面は鏡だった。
磨かれた銀色の面に俺が映っている。
『リアル同期』の項目を選ぶと身長や髪の長さや骨格が現実と寸分違わぬ形で再現された。
補正率はゼロに設定した。
目の下には、うっすらと隈が張りついている。
事故のあと鏡を見る回数が減った。
それでも、この顔が、俺だ。
『プレイヤーネームを入力してください』
空中に文字盤が浮かんだ。
俺は少し考えて指を動かした。
[氷温]
凍る手前の温度帯のことを、そう呼ぶ人がいる。
凍らせず、腐らせず、その手前で止める。
熟成の理想を、そのまま名前にしてしまった。
気恥ずかしいが悪くない。
『この名前は使用可能です』
続いて小さな選択画面が出た。
『プレイヤーマーカー(頭上名札)の公開属性を選択してください:[公開/非公開]』
『非公開』に触れた。
画面には補足が出ていた。
非公開にすれば周囲からNPCと見分けがつきにくくなる。
それを運営は意図的に許容している。
俺には、その曖昧さが好都合だった。
熟成の客はプレイヤーだけとは限らない。
NPCにも固有の体がある。
食べる人を相手がプレイヤーかNPCかで分けたくなかった。
誰に出すにしても、出す前に体の状態を確かめる。
それが俺の基準の最初の一行になる。
『すべての初期設定が完了しました。環海都市メビウス・特別自治区へ転送します』
白い面が、足元から霧のように剥がれていった。
一瞬、体が浮いた。
次に感じたのは湿った熱だった。
温かい潮風が頬に貼りつくように撫でていく。
耳の奥でツクツクボウシに似た甲高い声が断続的に鳴いている。
足の裏から骨を伝って潮騒の重低音が上がってくる。
岸壁に打ちつける波の鈍い響きだ。
視界が開いた。
海に向かって傾いた斜面に古い石造りの建物が、びっしりと貼りついている。
坂道に沿って段々畑のように幾重にも民区が重なり、その上には霞んだ高台が雲に半分かかるように聳えていた。
足元は苔の薄く張りついた頑丈な石畳の埠頭だ。
周囲では新規のプレイヤーが次々に光の粒から像を結んでいた。
誰かが歓声を上げ誰かが坂を駆け上がっていく。
「βテストの頃より、人が多いな」
という声が、どこかから聞こえた。
俺はその場に立ったまま鼻で息を吸った。
潮の匂いの底に別の匂いが沈んでいる。
鰓の奥の赤黒い血の匂い。
鱗の上の冷たい粘り気。
氷水に浸かった木箱の湿った木の匂い。
獲れて三時間ほどだ。
血は完全には抜けていない。
体が、先に反応した。
喉が鳴り、唾が湧き、胃の奥がきゅっと縮む。
仕込み場の土間の、あの匂いだった。
氷と塩と魚の血が混ざった鉄を舐めたような甘い匂い。
ここは現実の港町ではない。
それなのに二十五年かけて躾けられた体は匂いだけで、あの土間に立っていた。
視界の隅に、青い球体の輪郭が、静かに浮かんだ。
『ようこそPANACEAへ。
プレイヤー、氷温様。チュートリアルを開始します。
周辺の環境を観察し、基本的な操作をお試しください』
抑揚のない定型の案内だ。
球体は少し間を置いてもう一言だけ続けた。
『……最初の一歩は、焦らなくて構いません』
その間に人間じみた息のようなものが混じった気がした。
だが振り向いたときには球体はもう何事もなかったように俺の肩のあたりを漂っているだけだった。
腰には小ぶりな刃物の重みがあった。
背には細い竿がある。
竿の先には疑似餌が一つ結びつけられていた。
俺は、匂いのする桟橋の方へ、足を向けた。
[SYS_LOG::MITRA_CORE_OCEAN]
[EVT_TRACE::SESSION_01_INIT]
├─ SESS_ESTAB :: NODE_UID_7012_MINATO / SYNC=99.97% / LATENCY<0.44ms
├─ RULE_ACK :: TIME_RATIO=1.0 / DIVE_LIMIT=12H / REST_ADVISED=6H
├─ PHENO_SEL :: [HUMAN_GENERIC] (BIAS=0.000 / CALIB_FLAT)
├─ JOB_SEL :: [OCEAN_FISHER] (RATIO=0.4017% / DIRECT_BIO)
├─ CHAR_SYNC :: REAL_BONE_ALIGN (OFFSET=0.000)
├─ ID_REGISTER :: PN_ACCEPTED / MARKER_VISIBILITY=FALSE
├─ MTRX_XFER :: ZONE_MEBIUS_L0 [TORAI_SHORE_PIER]
├─ NAVI_ATTACH :: SUB_ROUTINE_NAVI_01
└─ INITIAL_ACT :: SENSOR_TRIG [OLFACTORY] -> TARGET_OBJ [PIER_FISH_CRATE] / DECAY_PHASE=DEGRADING




