第十二話「ヴィンテージ・バレンタイン」後編
「……参ったな。バレンタインデーくらいは、君の鋭い目は休暇中だと思っていたんだが」
「あ、ごめんなさい。不快にさせたなら謝ります」
「いいや。むしろ驚いているよ。そんな細かなところまで見ていてくれたのかとね」
ユリウスは自分の左手を、そっとテーブルの上に載せた。
「……実はね、私は生まれつき左利きなんだ。だが厳格な父は公の場や社交界で左手を使うことを許さなかった。だから、幼い頃から徹底的に右で書くよう矯正されたのさ。今ではサインも右で書く方が慣れているくらいだよ」
ユリウスの言葉にエドウィンは目を見開いた。
――ユリウスさんが左利きだなんて、ちっとも気づかなかった。
「じゃあ、このカードは……」
「そう。君へのメッセージだけは誰にも矯正されていない、本来の自分の手で書きたかったんだ。不格好で、君が違和感を覚えるほど拙い文字だったかもしれないが……」
ユリウスは少しだけ照れたように、エドウィンの手の上に自身の左手を重ねた。
「右手で書くのはオフィシャルな場面での言葉だ。でも左手で書いた言葉は、一人の男として君を想っている私自身の言葉なんだよ」
エドウィンは、重ねられた手の温もりと、その言葉の重みに胸が熱くなるのを感じた。完璧に見えるユリウスがエドウィンにだけ見せた、僅かな“線の揺らぎ”。それは最も柔らかい彼の本心だった。
「……そうなんですね。ありがとう、ユリウスさん。最高の答え合わせです」
エドウィンはその“不格好”な文字で書かれたカードを、何よりも大切な彼の心の証として胸ポケットに深く仕舞い込んだ。
レストランを出て、貰ったプレゼントを車に置いた後、二人は近くの公園を散策することにした。寒かったがジョギングする人や犬の散歩をする人など、それなりに人はいた。枯草色の芝生が冬陽に照らされて暖かそうに見える。
「……さっきの店。やっと予約できた店なんだ。秋にはもう今日という日のために店を探し始めたというのに、ディナーはもちろん、ランチもなかなか予約が取れなくて」
「今日ってそんなに混む日なんですか?」
冬の公園を歩きながらユリウスが言うと、エドウィンは不思議そうに問うた。
「ああ。皆、バレンタインデーはパートナーと素敵な時間を過ごしたいからね」
「そ、そうなんですね……苦労してセッティングをしてくれて、ありがとうございます」
今までパートナーがいなかったため、巷の事情を知らなかったエドウィンは初めて知り、素直に礼を言った。
「いや、大したことじゃない。……それにしても、成り行きとは言え、今日は私が左ききだということを話せてよかった。おかげでずっと、したかったことがしやすくなった」
「したかったこと?」
エドウィンが問い返すと、ユリウスは躊躇わずに自身の左手を伸ばし、エドウィンの右手をそっと包み込むように握った。
「こうして、素の自分で君を感じることだよ」
手袋越しではない、直接触れ合う掌の熱。エドウィンは、ユリウスの左手の力強さに、心臓が跳ねるのを感じた。
「ユリウスさん……」
エドウィンが少し俯きながら指を絡め返すと、ユリウスは満足そうに目を細めた。
「そういえば、エド。もうすぐ春休みだね。予定はあるのか?」
ユリウスが恋人らしく、繋いだ手を軽く揺らしながら、さりげなく尋ねる。
「あ、はい。三月下旬にタオのジュニア門下生を対象とした武術連盟主催の強化合宿に祖父とともに引率していくのと、それに参加するための事前準備としてうちの道場だけで稽古合宿もします。俺自身も選抜強化合宿があって、稽古にも時間を割かなければならず、春休みはけっこうハードです」
「そんなに合宿があるのか?」
ユリウスが驚いて眉を上げた。エドウィンが祖父に師事していることは知っていたが、門下生の引率や彼自身の合宿は初耳だった。
「はい。今、俺には補助指導員の資格しかありません。将来じいちゃんの道場を継ぐ下積みとして、できるだけ合宿に参加して、ゆくゆくは連盟公認の指導員資格も取るつもりです」
「……そうか」
ユリウスの声に落胆の響きを感じてエドウィンが彼の方を見る。
「ユリウスさん……?」
「……実は、春休みに君と小旅行をしたいと考えていたんだ。でもそんなに忙しいとなると難しいだろうな」
「そう……ですね」
エドウィンが申し訳なさそうに答えると、ユリウスは繋いだ手に少しだけ力を込めた。
「私は君を応援している。君は君の夢に向かって頑張ってくれ」
「は……はい!」
エドウィンの力強い返事が冷たい空気を震わせ、晩冬の柔らかな陽光が繋がれた二人の手を温かく照らしていた。
公園散策の後はユリウスが予めチケットを購入していたロマンティック・コメディ映画を二人で観た。観終わっても離れがたそうな様子のユリウスだったが、夕食にメイを招待しているからと、名残惜しく思いながらもエドウィンはデートを切り上げた。
夕方近くなってエドウィンが帰宅したとき、キッチンでエプロン姿のマリルーが何かを作っていた。
「ただいま。ルー、何を作っているんだ?」
「おかえり、エド。ピザよ。まだ時間はあるけど、今のうちに下準備を終えておこうと思って」
「俺は何をすればいい?」
「エドはポトフを作って」
「わかった」
エドウィンはコートをリビングのハンガーにかけると、エプロンをつけてマリルーの隣で夕食の準備に取り掛かった。
「……ふふ、デート、大成功だったみたいね」
「ああ。色々とありがとう。服も、香水も」
マリルーがピザの生地を伸ばしながら悪戯っぽく笑い、エドウィンは野菜を切りながら答える。
「よかったわね。エドが一生懸命選んだプレゼントも、手作りのケーキも、きっと彼にとってはどんな高価なブランド品より価値があったはずよ」
「はは、そうかな……」
エドウィンが照れたように笑い、ふと思い出して。
「あ。そういや、さ」
「何?」
「ユリウスさん、春休みに俺と小旅行に行こうと思っていたんだって」
「素敵ね!」
「あ、いや、合宿や稽古があるから行けそうにない、って結論になったよ」
マリルーが目を輝かせたものの、続いたエドウィンの言葉に、その輝きはあっさり消えた。
「ええー…せっかくの旅行を……恋人と旅行に行くって言えば、おじいちゃんも合宿の一つくらい、『今回の引率はいい』って言ってくれたかもしれないのに……」
「そうも行かないだろ」
「はいはい、エドは真面目だわよ」
「何でお前がむくれるんだ?」
……などと話しながら、二人は着々と料理を作っていった。
夕方。ルビーの営業を終えたメイがベネット家を訪ねて来た。
「「いらっしゃい!」」
「お招きありがとう。これ、焼き菓子を作ったんだけど……」
「ありがとう、メイ」
双子が出迎えるとメイははにかんだように笑って手土産を差し出したのでマリルーが受け取り、三人でダイニングへと向かう。
「おお、いらっしゃい」
「モーガンさん、こんばんは」
先に食卓に着いていたモーガンがメイを見て微笑み、深く刻まれた目尻の皺をさらに深くした。
皆が食卓に揃うと和やかな雰囲気の中、食べ始めた。チーズのたっぷり乗ったピザにポトフ、ベーコンとほうれん草のクリームパスタ、レモンスライスの入ったスパークリングウォーター。
「このポトフ、野菜の甘みが出ていてとっても美味しい」
メイが温かなスープを一口飲み、ふわりと微笑んだ。隣でピザを頬張っていたマリルーがメイを見る。
「そのポトフ、エドが作ったの。なかなかやるでしょ? 私が作ったピザとも相性バッチリよ」
「パスタは儂だ。材料をフライパンに放り込んで茹でるだけだから意外と簡単なのだよ」
モーガンもさり気なく自身の作った料理をアピールする。
「ピザもパスタもとても美味しいです。……あら?」
メイがにこやかに答えたそのとき、ふと冬の森を思わせるような香りに気づき、不思議に思う。
「何か、森の香りがする……」
「あ! ああ、それ、父さんの香水なんだ。今つけていて……」
「素敵な香りね」
「は、はは……」
メイの感想にエドウィンが照れて笑うと、
「おかげでエドの今日のデートも大成功!」
マリルーがニヤニヤしながら合いの手を入れた。
「メイのアドバイス通りにしたらガトーショコラもちゃんと焼けたし……ありがとう」
「よかった!」
メイが満足そうに微笑む。……が、ふいに彼女の笑みが消え、僅かに目を伏せた。
「……実は今日、常連客のバートさんに『店が終わったら一緒に過ごさないか?』って言われたんだけど、友達の家の夕食に招かれているから、って断ったの」
バートは魚市場で働く中年の男である。
「そんなことがあったの?」
「バレンタインデーを誰かと過ごそうと必死になる者も多いからのう」
「そう言えば、ライリーは結局パートナーを見つけられなかったから、今夜は信号機パーティーに参加する、って言ってたな」
「信号機パーティー?」
メイがキョトンとした顔で聞き返すと、
「あ、ああ、そうか。高校にはないからメイは知らないよな。大学のバーが主催するパーティーで、参加者は自分の状況に合わせて赤・黄・緑のいずれかの色の服を着たり、入り口で配られる光るブレスレットやステッカーを身につけたりするんだ。赤は交際相手がいるよって意味で、黄色は『慎重だけどチャンスはあるかも』的な? 緑はフリーだから積極的に話し掛けて、ってサインなんだ。」
エドウィンは丁寧に説明した。
「へえー…パートナーが欲しい人は一生懸命なのね。でも私はルーみたいな友達がいれば、恋人なんて必要ないわ」
「私もよ! メイ」
メイとマリルーは笑ってこの会話を終えた。だが二人のあまりに屈託のない、それでいてどこか閉じられた世界を感じさせる言葉に、モーガンとエドウィンは思わず沈黙した。
マリルーの明るい笑い声とメイの穏やかな微笑み、エドウィンの爽やかな、そしてモーガンの豪快な笑みが混ざり合う食卓で料理を食べ終えると、マリルーがテーブルの端に置いておいたメイの手土産に手を伸ばした。
「わっ、美味しそう!」
箱の中には六個のチョコレートカップケーキが入っていて、マリルーが感嘆の声を上げる。それは華やかなデコレーションこそないものの、しっとりとした生地の中に刻んだクルミがたっぷり入った、素朴ながらも贅沢なカップケーキだった。
「俺、紅茶を淹れてくるよ」
エドウィンがそう言って席を立ち、マリルーも小皿を取りにキッチンへと向かう。戻ってきて、小皿にカップケーキを載せ、それぞれの前に置く。
「メイ、これ、手でいっちゃってもいい?」
エドウィンが紅茶を配り終えるやいなや、マリルーが早速自分の分を持ち、メイの返事を待たずに紙のライナーを器用にぺりぺりと剥がしていく。
「ええ、もちろん」
メイが遅れて答え、自分の分を手に取り半分に割ると、断面からふわりと甘い香りが立ち上る。
「……ん! くるみが香ばしくて最高!」
マリルーが頬張る横で、エドウィンも自分の分を手に取り、思い切りよく齧り付く。口いっぱいに広がる甘さとカカオの香り。
「ほほう、これは美味い」
モーガンもマフィン型のカップケーキを大きな手で掴み、豪快に半分を一口で消し去った。
「あ。ルー、口の横についてるわ」
メイがマリルーの頬についた小さなケーキの屑に気づき、指の甲でそっと拭った。
「ありがとう、メイ。……でも、こうして皆で手を汚しながら食べるのも、悪くないわね」
「ああ。バレンタインデーの夜を掛け替えのない家族と気の置けない友達と一緒に過ごせるなんて幸せなことだよ」
「同感だの」
「私も、皆さんと一緒に過ごせてとても幸せです」
メイが幸福そうに微笑む。
「あ、そうだわ。八時から父さんと母さんとビデオ通話するんだけど、メイも一緒にどう?」
「え……ええ! ぜひ!」
カップケーキを食べ終わってマリルーが尋ねると、メイは嬉しそうに頷いた。
「あ。そうだわ。」
マリルーは何かを思い出したかのように席を立ち、部屋の片隅から小さな紙袋を持って戻って来た。
「あとこれ。今日届いたの。母さんお手製のチョコクッキー。」
「あ、ありがとう……」
家族の温もりにメイはちょっと泣きそうになりながら、クッキーを受け取った。
そして八時。モーガンと双子、メイは首都にいるアルマとトーマスとのビデオ通話画面の前に集まった。
「ハッピーバレンタイン! 私の作ったチョコクッキー、届いた~~?」
夫・トーマスと並んで映るアルマが元気よく問いかける。
「おお、届いたぞ。ハッピーバレンタイン!」
「「ハッピーバレンタイン! 父さん母さん!」」
「ハッピーバレンタイン!」
皆が口々に答えた。
「グリーティングカードをありがとう~~! メイもルーたちと過ごしてくれてありがとう~~!」
互いにバレンタインを祝った後、互いの近況を順番に報告し合う。
「父さん、コートとセーター、香水まで貸してくれてありがとう。おかげで今日のデート上手くいったよ」
エドウィンの番になって父にお礼を言うと、
「おや? 香水?」
トーマスは息子に香水を貸した覚えがなく、首を傾げる。
「私が貸したのよ」
「ああ……どうりで見当たらないと思った」
トーマスの反応に皆で笑い合う。外はまだ冬の冷たさが残っていたものの、家の中は家族の情愛と今日一日の幸福な記憶で春のように温かかった。
皆が寝静まった頃、ナイトテーブルの上のエドウィンのスマホ画面が光った。ユリウスからのメッセージだった。
Julius:エド、君のガトーショコラをいただいた。こんなに甘くて温かい味は初めてだ。改めてありがとう。おやすみ、私の大切な人。
枕に顔を埋め、既に深い眠りに落ちているエドウィンはそのメッセージに気づかない。だが彼の口元が微かに微笑んだ気がした……
~第十二話 終わり~




