第十二話「ヴィンテージ・バレンタイン」前編
冬休みは終わりを告げ、学校が始まると、あっという間に二月になった。
「買い出しドライブ?」
バレンタインデーが近づいた、ある日。講義の終わりに話し掛けてきたライリーにエドウィンは思わず訊き返した。
「そ! 車持ってる奴はけっこうやってるぜ? 学生掲示板で同乗する人を募ってさ。車を持たない学生を乗せるんだ。俺も入学してすぐに始めたんだけど、お礼にバーガー奢ってもらったり、友達も増えていいことずくめだ。エドも自分の車があるなら、やらないか?」
「うーん……困っている人がいれば乗せてあげたいけど……掲示板で募ってまでは……それに俺、買い物は大体ハーバータウンでするし……」
エドウィンが歯切れ悪く答える。
「何だよ、ノリが悪ィなあ。それをきっかけにバレンタインデーを一緒に過ごしてくれる娘に出会えるかもしれないだろ? 上手く行けばカノジョにだって……」
「……」
――結局、それが目的なのか?
エドウィンは溜息を吐いた。
「……ライリー。この際だから言うよ。俺、恋人がいるんだ」
「…………え? ええっ!?」
ライリーがショックを受けた顔でエドウィンを見つめる。
「今まで黙っていて悪かったよ。昨秋、正式に恋人になったんだ。……だから、ごめん。買い出しドライブはしない」
そう答えて通学用バックパックを背負い、講義室を出ようとしたエドウィンを、ライリーは慌てて追いかけた。
「エド! だ、誰だよ? 同じ学部の娘か?」
「……いや。大学の人じゃない。詳しくは言えないけど」
エドウィンはライリーとの会話を適当に切り上げて講義室を後にした。
*
バレンタインデーを数日後に控えた、ある日。エドウィンのベッドの上には数枚のシャツとセーター、デニムが投げ出されていた。 普段の彼の服装は適当だが、バレンタインデーばかりはそうはいかない。デートの相手はファッション雑誌から抜け出たかのような着こなしのユリウスなのだから。
「……これだと、子供っぽすぎるか?」
エドウィンが手に取ったのは、大学に着ていく厚手のグレーのカーディガンだ。鏡の前で合わせてみるが、どうしても“真面目な苦学生”にしか見えない。
その時、自室のドアがノックされた。
「どうぞ」
「エド、般教のノート貸して欲しいんだけど。つい居眠りしちゃって……って、何してるの?」
ドアを開けて入ってきたのは妹のマリルーだった。
「バレンタインデーに着ていく服を選んでるんだよ」
「……ああ、ユリウスさんとデートするのね」
マリルーが改めてベッドに投げ出された兄の服を見る。
「あちゃ~…予想した通り。待ってて、すぐに戻るわ」
彼女は一旦エドウィンの部屋を去ると上質なカシミヤのタートルネックを持って戻って来た。
「……? それは父さんのじゃないのか?」
「そうよ。デートに着ていく服がないかもと思って、クリスマス休暇から帰るときに父さんから借りておいたの」
それを聞いてエドウィンが目を見張る。
「おま……いつの間に……あ。……ってことは、父さんにユリウスさんのこと、話したのか?」
「デートする相手ができたとだけ。……サイズは同じはずよ」
エドウィンは黙ってマリルーから深いボルドー色のカシミヤセーターを受け取った。
「ボトムスはスリムなブラックデニムを合わせて、靴は革のチャッカブーツをこれから磨いて」
「……お前。俺の服や靴、全部把握しているのか?」
マリルーの助言にエドウィンが不審な目を向ける。
「全部じゃないけど。いざ、ってときに役立ちそうなものは記憶してるわ」
「すごいな」
「どうってことないわ。……おっと忘れるところだった。ノートお願い」
マリルーは偶々一緒に受講することになった一般教養科目のノートを兄に借りると行ってしまった。一人になってからエドウィンはマリルーに言われたブラックデニムを探し出して履き、父のセーターと合わせてみた。
結果として、彼女のアドバイスは的確だった。鏡を見ると、ボルドーのカシミヤの柔らかな光沢と黒のデニムの組み合わせが、エドウィンの若々しさに落ち着いた高級感を添えている。
「……あとは靴を磨かなきゃ」
エドウィンは呟き、階下へと向かった。
*
バレンタインデー当日の午前、出掛けようとしたエドウィンはマリルーに呼び止められ、自宅のリビングで彼女に最終チェックを受けていた。ソファではモーガンが新聞を読んでいる。
「……悪くないわね。あとはこれを」
上から下までチェックした後、マリルーがポケットから取り出したのは小さな香水の瓶だった。
「母さんから預かってきたわ。父さんがいつも母さんとのデートで使うウッディ系の香り」
「え? ないと父さん、母さんとデートのとき困るんじゃないのか?」
「い・い・の! 失くしたことに気づけば父さんのことだから、また買うわよ。さあ、つけて」
マリルーが小瓶を渡して言い足す。
「つけすぎは厳禁よ。すれ違った瞬間に、ふっと香るくらいがちょうどいいんだから」
エドウィンは言われるまま、手首に一滴だけその香りを落とした。冬の森を思わせる、静かな、だが確かな存在感のある香り。
「あとこれも。父さんのコート。何着かあるから、って。いいものは時間が経っても素敵よ。まさにヴィンテージね!」
マリルーが続いてパールグレイのチェスターコートを差し出したのでエドウィンは受け取り、羽織った。
「よし、完璧!」
「おお、エド。これを忘れてはいかんぞ。昨日、一生懸命作っておっただろう?」
そのとき、リボンをかけた箱に入れ、更にその箱を紙袋で包み冷蔵庫に隠しておいた(つもりの)ガトーショコラをモーガンがニコニコしながら持って来たので、エドウィンが呆気に取られる。
「この焼き菓子といい、今日のデートは並々ならぬ気合の入りようだの。成功を祈っておるよ」
モーガンがぱちり、とウィンクした。普段は厳格な武術の師範でも、こういうときは孫を思う祖父だと実感する。
「並々ならぬ気合、って……本当は高価なプレゼントが買えればよかったんだけど、車を買ったばかりでお金がないから手作りしたんだ」
「「……」」
エドウィンが後頭部に片手を遣り、赤くなりながら説明すると二人は微妙な顔で沈黙した。
「と、とにかく、そろそろ行くよ。二人ともありがとう」
エドウィンはモーガンから菓子箱を受け取り、用意していた保冷バッグに入れると出掛けて行った。
「……もしかして、エド。バレンタインに手作りのお菓子を贈ることが単なるプレゼント以上の深い愛情や親密さを意味する、って知らないのかしら……」
「好きなら構わんだろ」
マリルーの疑問にモーガンがあっさり答え、後に残された二人はエドウィンを静かに見送ったのだった。
ユリウスが指定したのは、ヴェリディア市の目抜き通りから一本入った路地にあるイタリアン・レストランだった。 重厚なオーク材のドアを開けると外の喧騒が嘘のように消え、柔らかなジャズの調べと香ばしいトリュフの香りが鼻をくすぐる。窓は小さく、外光よりも白熱灯の明かりがアンティーク調の店内を彩っていた。
「……あ」
一番奥にあるL字型のボックス席にユリウスの姿を見つけてエドウィンが小さく呟いた。今日のユリウスは濃い灰青のハイネックセーターにブラックブルーのテーラードジャケットとコーデュロイパンツを合わせていた。その洗練された佇まいにエドウィンは足が竦みそうになったが、マリルーのコーディネートが彼の背中を優しく押す。
エドウィンがテーブルに近づくと、ユリウスはゆっくりと顔を上げた。その瞬間、彼は鳶色の目を見張った。
「……お待たせしました」
「いや、今着いたところだ」
ユリウスは立ち上がり、コートを脱いだエドウィンをエスコートして自身の斜めに座らせた。そのときふわりと、冬の森の香りが漂う。
「……エドウィン、君……」
近い距離で見つめられて、エドウィンの耳が熱くなった。
「……変かな」
「変どころか。……驚いたよ。今日の君は、いつにも増して、その……目が離せないほど素敵だ」
ユリウスの視線が、エドウィンの丁寧に整えられた髪から首元、肩のラインをなぞる。
「……はは。コートもセーターも香水も、父さんのなんですが」
エドウィンが少しきまり悪そうに打ち明けると、ユリウスはふっと喉の奥で笑った。
「今日の日のために、君が準備してきてくれたことが嬉しいよ」
ユリウスがソファ椅子に置かれたエドウィンの手にそっと自身の手を重ねる。
「……君が素敵すぎて、このまま誰の目にも触れない場所へ連れ去ってしまいたい気分だ」
冗談めかした口調ではあったが、その瞳の奥にはエドウィンが今まで見たことがない熱が宿っていて、重ねられた手の感触も相まって、逃げ出してしまいたいような衝動に駆られる。
「あ、えっと……オーダー、しないと」
それでも何とか平静を装って言い、さり気なく手を彼の手の下から抜くとメニューに手を伸ばした。
「“今日”出掛けること、家族に詮索されませんでしたか?」
「ああ、まあ。多少は、ね」
注文を終えるとエドウィンが尋ね、ユリウスが肩を竦めて出掛ける前のやり取りを思い出す。
「ユリウス、出掛けるのか? バレンタインデーに仕事の約束でもあるまい」
出掛けようとした時、偶然父ヨハネスに鉢合わせたのは想定外だった。ユリウスはジャケットを手に持ったまま僅かに視線を泳がせる。
「いえ、仕事ではありませんが……少し、寄らなければならない場所があるんです。……個人的な、用事で」
「個人的な用事? それはまた、ずいぶんと珍しい。もしかしてデート――」
彼がソフィアと破談になってから、極力そういった話題には触れずに来たものの、特定の相手ができた可能性にヨハネスが前のめりになる。
「もう、パパ! 兄様はこれから“自分へのご褒美”を買いに行くのよ。最近、お仕事すごく頑張っていたじゃない? 私だって、パパに内緒で買いに行きたいスイーツくらいあるわ。ね、兄様?」
だが兄が出掛けるまで、それとなく父の動向を見張っていたクラリッサが、ここぞとばかりにすかさず駆け寄り口添えした。ユリウスは苦笑しつつ、
「……ああ。クララの言う通りです。では、そろそろ行かなければ」
と言い、父に詮索されることなく外出することに成功したのだった。
「君は? 大丈夫だったか?」
「はい。今日ヴェリディア市まで出掛けることを昨日、祖父に話しましたが、特に何も訊かれませんでした」
「そうか、よかった」
恋人になってまだ三か月で、二人とも今はまだ家族に自分たちの関係に踏み込まれたくなかった。
「……セカンドハウスを買って共に過ごすようになったら、学生の君は私のことを家族に話さなければならないだろうな」
ユリウスが静かに言った。同棲までするとなると、相手の素性や学業が疎かにならないか心配するのは家族ならごく普通である。
「そう……ですね。ルーは知っているけれど、自宅以外の処で過ごすようになると、何かあったときのために他の家族にも知らせておくべきですよね」
――家族に話す……一体、父さんたちはどんな反応をするんだろう?
家族の反応に不安がないわけではなかったが……エドウィンは今はそれを考えないことにした。
「それがいいと思う。もう物件は見つかったから、後は購入手続きをするだけだ。楽しみにしていてくれ」
楽し気に話すユリウスの言葉を、エドウィンは何処か現実味なく聞いていた。
その後も互いの近況など他愛のない話をしているうちに、料理が次々と運ばれてきて二人は美味しいランチを楽しむ。
食後のエスプレッソが運ばれてきたとき、テーブルの上の皿はきれいに片付けられていて、落ち着いた雰囲気だったため、
――プレゼントを渡すなら、今だ。
エドウィンはそう判断して傍らの保冷バッグに手を伸ばした。
「あの……これ、プレゼントです」
中からメッセージカードが添えられたシンプルな白い箱を取り出し、保冷バックを下にして一緒に差し出す。
「メイに聞いたら、『そんなに難しくないから』って勧められて……俺が焼いたガトーショコラです。少し形は悪いけど、味は悪くないと思います。……あと、これも」
エドウィンがコートのポケットを探り、透明なラッピング袋に入った、黒い革紐のついた天然木の栞を取り出し、箱の上に置いた。
「君が焼いたのか?」
ユリウスが驚きながらも、まずはシールで貼られたカードのメッセージを読む。そこには『ハッピーバレンタインデー 持てるすべての愛を込めて ――エドウィン』と書かれていた。そして蓋を開け少し形の悪いガトーショコラを見て嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう……最高のプレゼントだよ。私からも……」
蓋を戻すとユリウスが傍らの小さなペーパーバッグからきれいにラッピングされた四角形の、平たい小箱と細長い小箱の二つを取り出し、エドウィンに差し出した。添えられたカードには『私の人生に君がいてくれて、本当に幸せだ。 永遠に君の、ユリウス』とあった。メッセージに赤くなりながらもエドウィンが包みを解き、開けてみると……一つはブランドもののチョコレート、もう一つには高級万年筆が入っていた。
「こ……こんなに高価なものを……本当に、ありがとうございます。何か、返さないと釣り合わない……」
「お返し? 今日、君と一緒に過ごせることが私への最大のギフトだよ」
エドウィンが恐縮してお礼を言うとユリウスは笑い、コーヒーカップを持ち口に運ぶ。――が、そのとき、エドウィンはふとユリウスのメッセージカードの小さな違和感に気づいた。
「……あれ? ユリウスさん、一つだけ聞いてもいいですか?」
「なんだい? エド」
「このカードの文字……あなたの筆跡と微妙に違う気がするんです。リゾートバイト中、オフィスであなたが書いたものを色々見かけました。確かあなたの筆跡はもっと……」
ユリウスのカップを持つ手が、止まった。彼が見つめる中、エドウィンが続ける。
「ペンの運び……特に『ユリウス』の『j』や『s』の払いの角度が、あの時よりも僅かに急で、力が抜けている。インクの溜まり方も逆だ。まるで、誰か他の人が代筆したか……あるいは、わざと癖を隠して書いたように見える」
一瞬の沈黙の後、ユリウスは観念したように短く笑い、カップをソーサーに戻すと両手を軽く上に上げた。
~後編に続く~




