第九話「盗まれた未来予測」後編
「昨日の夜から今朝にかけてじゃろう。施錠はされていたが、物理的な破壊の痕跡はない。私しか使えないはずの認証を、誰かがすり抜けた形跡がある。誰か、私の研究の仕組みを深く理解している者による犯行に違いない」
教授が答えて彼の言葉を受け、傍らの痩せた男性が続けた。
「幸いにも外部に送信した履歴はなかった。だがコピーされている恐れがある。内部の者による犯行である可能性が高いが故に、君も含めてこの場にいる者で大学の内部調査チームを結成した。君を加えたのは、君が情報・統計・データ分析に優れているというビートン助教授の証言と……」
「儂の推薦じゃよ」
シモンズ教授が柔和な笑みを浮かべて、言った。
「君、オフィスアワーに来ていたじゃろう? 儂の研究テーマに強い関心を示していたのを覚えておるよ。学生でも、儂の研究の“何が重要か”を理解している君は調査チームの一員として相応しいと思うての」
「俺のことを覚えていてくださったなんて、光栄です」
エドウィンは教授の身に余る言葉に、落ち着きなく後頭部へ片手を遣った。
「自己紹介が遅れたが、事務員のダンだ。ではメンバーが揃ったところで今から大学主導の初動調査を行う。エドウィン、君は監視カメラの映像を確認するために私とともに監視室に来てくれ」
痩せた男が言い、エドウィンは力強く頷いた。
映像には夜間に研究室に出入りする数人の大学院生や研究員の姿が残されていた。その中に。
「……ん?」
映像の端にある研究員の姿が映った。彼は夜遅く研究室のドアを施錠し、廊下を歩いていく。一見、何事もない日常の動きだが、エドウィンは違和感を覚えた。
――今の動き……何だか不自然だ。
「あの。ここ、もう一度見てもいいですか?」
エドウィンはダンに許可を取り、映像を巻き戻した。その研究員は施錠を終えて振り返った瞬間、一瞬だけ肩の力が抜け、体の重心が微かに前に傾いた。それはまるで“緊張が解けた一瞬”または“何か重いものを背中から降ろした直後”に見られるような体の反応だった。
――ただの施錠にしては緊張し過ぎている。まるで大きなミッションを終え、警戒心が緩んだときのような……
エドウィンはその研究員が首から掛けているIDカードをズームして確認し、彼の名前『ジョン=モロー』をメモした。
――そう言えば、彼はシモンズ教授と意見を対立させているライバルのローパー教授の研究室に出入りしているという噂があったな。
エドウィンの頭にそんな情報が掠める。
その後もエドウィンは事件のあった時間帯の映像をすべて見たが、それ以外に取り立てて気になるところはなかった。
「これから警察が来て、捜査することになっている。本日の我々の調査はこれで終わりだ。わかっているだろうが、他言無用だ。何かわかったら事務室に来るように」
ダンは言い、その日は解散となった。
監視室を出てからエドウィンは構内の人気のない場所に行き、ユリウスに電話を掛けた。
「エド? どうしたんだ?」
彼の周囲が騒がしい。どうやらオフィスにいるらしかった。
「ユリウスさん。事情は話せませんが、ある人物について調べてほしいんです」
「誰について?」
「シモンズ教授の研究室の研究員でジョン=モローという人物です」
「あの高名なシモンズ教授の? わかった。何かわかればすぐに伝える」
「ありがとうございます。……では」
「ああ、では、な」
それで電話を終えたのだが、待ち受け画面に戻ったスマホを見たエドウィンは、電話越しのごく短い会話でじんわりと嬉しく思っている自分自身に気づいた……
その日の受講を終えてエドウィンが大学の駐車場にやって来ると、自身の愛車スクーバブルーメタリックの中古セダンに寄りかかり待っているマリルーの姿が見えた。今日は二人とも登下校時刻が同じため、一台の車で通学していた。
「お待たせ、ルー」
車を開錠しエドウィンが運転席に乗り込む。
「今日、経済学部棟で何かあった? 警察も来ていたようだけど……」
助手席に座るとすぐにマリルーが尋ねてきた。もちろん事件のことを話すわけにはいかなかったが、正直、彼女の助力は欲しいのが本音だった。
「ルー、経済学部のジョン=モローという研究員について調べてくれないか? 彼の不満や噂話……そういったネガティブな情報は、学部以外の人間の方が周囲の者も警戒せずに話すかもしれない」
それだけでマリルーは兄に詳細を話せない事情があることを察する。
「私の得意な“聞き込み”ね? 早速明日やってみるわ」
「ありがとう。頼んだぞ」
エドウィンは微笑んで車を発進させた。
*
翌日。マリルーは昼休みになるとすぐに経済学部棟の近くにある、経済学部の学生が集まりそうな北キャンパスのカフェテリアへと足を運んだ。彼女はまず初めに、研究員であるジョンの存在を知る院生にアタリをつける必要があった。
――学部生は友人と長居して雑談、スマホがデフォ。そうでない人は……
マリルーがカフェテリアを見渡すと、学術誌や論文プリントが入ったトートバッグを無造作に隣の椅子に置き、一人で開いたノートPCの傍で論文に赤を入れている、黒のチェックシャツの年上だと思われる男性が目に入る。
――そっか。研究室のあるフロアが閉鎖されているから、ここで作業をしているのね。
マリルーはその男性に静かに近づいた。
「あ、すみません。もしかして経済学のティーチング・アシスタントの方ですか?」
「ええ、大学院生です。何故ですか?」
突然若く美しい女性に話し掛けられて院生が目をしばたたかせる。
「私、教育学部のマリルーっていいます。経済学部のシモンズ教授の講義に興味があって……でも、教授ってすごく厳格で、近寄りがたいイメージがあるじゃないですか? 実際はどうなのかなって」
マリルーは“世間知らずな下級生”を演じながら、さりげなく会話を誘導した。
「シモンズ教授? 確かに厳しいけど、中身は温厚だよ。……ただ、最近は研究室の空気自体がピリついているんだ」
「えっ、そうなんですか? 何かトラブルでも?」
院生が溜息混じりに言うと、マリルーは質問の機会を逃さずテーブルに手をつき、身を乗り出した。その反動でぴったりと身体にフィットしたカットソーの胸が揺れ、つい院生の目が釘付けになる。
「いや……まあ、研究方針の食い違いとかさ。特にジョン…ジョン=モローは、教授にかなり反発していたからね」
「ジョンさん?」
マリルーは知らない名前を初めて聞いたかのように、小首を傾げた。
「ああ。優秀なんだけど上昇志向が強すぎるっていうか。シモンズ教授の『データは公共の利益のためにある』っていう哲学が、彼には甘っちょろく見えてたみたいで。『もっと俺たちの価値を評価してくれる場所があるはずだ』って、愚痴をこぼしているのを何度も聞いたよ」
院生が饒舌なのは、マリルーが美人なのと無関係ではなさそうだ。
「価値を評価……それって、お金のことですか?」
「はは、直球だね。まあ、実際そうだろうな。彼は最近、ローパー教授のところにも頻繁に出入りしてたし。ローパー教授はシモンズ教授のライバルで、企業との提携にも積極的だから、彼には魅力的に見えたのかも」
「ローパー教授……」
「そういえば、」
と彼は思い出したように付け加えた。
「今まで高価なものを身に着けているのを見たことのないジョンが先週、新しい高級な腕時計をしてたんだ。ローパー教授から引き抜きの支度金でももらったのかって、みんなで噂してたところだよ」
「高級な腕時計……あはっ、経済学部って、なんだかドラマみたいで面白いんですね! 勉強になりました。あ、私、次の講義があるので、これで失礼します。ありがとうございました!」
マリルーは明るく爽やかに礼を言うと踵を返した。
「……エドに伝えなきゃ」
カフェテリアを出ると彼女は小さく呟き、兄にLINEを打ち始めた。
一方その頃。エドウィンはユリウスからのLINEを確認していた。
Julius:ハーリー・ファイナンスという企業が研究員のジョンに多額の研究費を提供していることがわかった。更に件の企業は今朝から不自然な先物取引を行っている。
程なくしてマリルーからもラインが届く。そこにはジョンに関する新たな情報が記載されていた。
「やはりジョンで間違いない。ルーとユリウスさんの情報と完全に一致した。緊張が解けた一瞬、あれがデータ送信を終えた合図だったんだ」
エドウィンは呟き、このことを報告するために大学の事務室へと向かった。
エドウィンが事務員に調べたことと自身の見解を話すと、ジョンはすぐに警察に事情聴取を受け、ハーリー・ファイナンスから援助を受けていたこと、シモンズ教授の研究データをコピーしたことを自白した。
「データの入ったUSBを売るつもりだった。だがまだ売ってはいない! 手元にある!」
彼の必死の叫びは、“まだ実害を出していない”ことで“罪に問われない”ことを切望したものだったが。警察や教授、学校関係者の軽蔑した視線を受けてそれが甘い考えなのだと理解した。
「……私の研究も、評価されるべきだったのに……」
「君の気持もわかるが、犯罪は犯罪だ。署までご同行願おう」
俯き呟くジョンを警察官が立たせ、連行して行った。
*
事件から数日後。経済学部棟の封鎖は解除され、シモンズ教授の講義も通常通り行われるようになった。
その日最後の講義が終わると同時に、隣の席で突っ伏していたライリーが大きな欠伸をしながら体を起こした。
「……なあエド、結局あの『立ち入り禁止』って何だったんだ? 設備点検って割には警察まで来てたし、お前、教授んとこ行ったきり戻ってこなかっただろ?」
「ああ、あれは……ちょっとした手違いがあったみたいで。俺は統計の数字を確認するのを少し手伝っただけだよ」
エドウィンは教科書を鞄にしまいながら、努めて平然とした声で答えた。まさか大学の内部調査に協力して研究員によるデータ盗難事件を解決したなんて、口が裂けても言えない。
「ふーん? お前、相変わらず教授に気に入られてるよな。あ、それよりさ!」
ライリーがニヤリと笑い、エドウィンの肩に腕を廻した。
「自分の車、買ったんだろ? スクーバブルーの中古セダン。駐車場でお前が乗りこむとこ見たぜ。……もしかして。カノジョ、できたのかよ?」
ライリーはそう言って笑ったが、その目には先を越された悔しさよりも純粋な羨望が浮かんでいた。
「……いや。いつまでもじいちゃんの車を使っていては悪いと思っただけのことさ」
双子が祖父の車で通学する間、確かに彼は不便な思いをしていたのだから。
「そうかよ。はは、なら、俺たち仲間だな! カノジョができるようにお互い頑張ろうぜ!」
「あ、ああ……」
ライリーは途端にぱあっと明るい表情になり、エドウィンの背中をパシパシと叩いた。そして先に歩きかけて立ち止まり、振り向く。
「今度、俺もお前の車に乗せてくれよ」
「ああ、いいよ。」
「よしっ! また、ルーと三人、秋の思い出作り、しようぜ!」
ニカッと笑い、サムズアップしてみせる。
「え? あ、ああ……そうだな……」
エドウィンは夏休みの思い出だけで十分だったが、ぎこちなく笑ってそう答えた。
大学の駐車場に向かうと、スクーバブルーの車体に寄りかかってスマホをいじっているマリルーの姿があった。
「お待たせ。ライリーに捕まってたんだ」
「大して待ってないわ。さあ、ハーバータウンに帰りましょう」
「ああ」
エドウィンが運転席に乗り込むと、同じように助手席に滑り込んだマリルーが。
「……ねえ、自分の車を持つ、ってどんな気持ち?」
前を向いたまま、尋ねる。エドウィンがエンジンをかけると、中古とはいえ静かで安定した振動が伝わってきた。
「最高だよ。自分の“足”があるって、こんなに便利なんだな」
エドウィンはハンドルを握る手に少しだけ力を込め、ゆっくりと車を発進させる。
「そうよね。私も自分の車を持ちたいけれど……今はある目的のためにお金を貯めているの」
「ある目的?」
「今にわかるわ」
エドウィンが訊き返すと、マリルーは遠い目をして言った。
暫くの間。二人とも無言で車を走らせていたのだが、エドウィンがふいに口を開いた。
「……この前のユリウスさんとの初デートで」
「うん?」
「恋人になりたいと言われた」
「え……」
「そのとき俺は、恋人になる前にハーバータウンで一日か二日間、過ごしてみてほしいと伝えた。彼に俺が育った場所を、ちゃんと見ておいてほしいと思って」
「いい考えだと思うわ。二人の住む世界が違いすぎるのは私も懸念していたところよ」
「それで、家に泊まってもらうことになるかもしれないんだけど……」
「おじいちゃんのことね?」
「……ああ。全部話すべきか、今の段階では“友達”ということにするか、お前はどちらがいいと思う?」
「……今は話さない方がいいと思うわ。理由は二つ。一つはおじいちゃんがユリウスさんをエドの“交際相手”というフィルターを通して見た場合、自分ではそんなつもりはなくても無意識に彼を“査定”してしまうと思うの。でも彼は今回、家族に交際を認めてもらうために来るわけじゃないんだし、余計な先入観は持たせない方がいいわ。そして二つ目は……ハーバータウンでの生活を見てユリウスさんがエドとの交際を『やっぱり無理だ』と思うこともあり得なくはないってことかな」
マリルーはエドウィンの問いについて刹那、考えた後に自身の意見を述べた。
――まあ、その可能性はほとんどないけれど。何せ彼、エドのこと大好きだから。
マリルーが心の中で思う。だが彼女の見解とは裏腹にユリウスが自分に背を向けるのを想像して、エドウィンの心が寒くなる。
――破局。考えもしなかった。
突如黙り込んだ兄を不思議に思って見たマリルーは、硬い表情で前方を見つめる彼の横顔にはっとした。
――……ああ。エドもかなり本気、なのね。
マリルーはそのとき、彼らの恋がどこへ向かおうとも、兄の味方でいようと決心した。
〜第九話 終わり〜




