第九話「盗まれた未来予測」前編
十月になって大学が始まり、エドウィンとマリルーに日常が戻ってきた。
ある土曜日の午後、双子はウィリアムズ果樹園から安く仕入れたわけあり品のオレンジをコーヒーショップ“ルビー”に持って行った。
「わあ~~!? 車、新しく買ったの? すごく素敵……!」
店先に停めたスクーバブルーメタリックの中古セダンを窓越しに見て、メイが目を輝かせ驚きの声を上げた。ポツポツとテーブルにいた客も彼女のリアクションに思わず窓の外に目を遣る。
「ああ。高校のときからコツコツ貯めたバイト代で自分の車を買ったんだ。……まあ、半分近く親が出してくれたんだけど」
「あはは……エドには買わなきゃいけない事情があったのよ」
エドウィンが後頭部に手を遣りながら説明するとマリルーが言い、メイの耳元に口を寄せて囁いた。
「実は……何と、エドがユリウスさんと交際を始めたの」
「え!?」
「私と車を共有していると一緒に行動しなければならなくて、彼とデートできないでしょう?」
そう言ってマリルーが肩を竦める。
「それはそうよね……あ! オレンジの仕入ありがとう。お礼に今、コーヒーを淹れるから待ってて」
メイは手際よくコーヒーを淹れ始めた。
「プラムジュース、とても美味しかったわ。ティースプーンも大事に使わせてもらってる。本当にありがとう」
カウンターでコーヒーを飲む双子にメイは、彼らにもらったリゾート土産のお礼を改めて言った。
「喜んでもらえたようでよかったわ。プラムはクレスト地方の名産品なんですって。おじいちゃんにはプラムリキュールをあげたのよ」
「そうだ。フードフェス、結局参加したの?」
ふとエドウィンが訊くとメイとマリルーはきょとんとした顔をした後、フェスのことを彼に話していなかったことに気づいた。
「え……ええ! 参加したわ。物珍しさからか、うちの“あんみつ”が大好評だったの」
「へえ~、“あんみつ”かあ。どんなんだろ?」
メイが口にした聞きなれない単語に、エドウィンがスマホを取り出し検索する。
「うわ、何か見たことのないものが多く入ってる」
「イベント会社の担当者のアイデアで、あまり馴染みのない材料の手配も全部してくれたわ」
「ふうん? アイデアを出して、材料を手配して、好評を博す……有能な人みたいだね」
「ええ。来年もまた彼女が担当してくれるといいんだけど……」
そこで興味津々といった顔でエドウィンを見た。
「ところでエド。ユリウスさんとのことも聞かせて?」
「へ? いや、その……」
エドウィンが言い淀む。
――交際を始めたと言っても、まだ『お互いに恋愛対象に成り得るかどうか試して』いる段階なのに……
「え……っと、まだ全然……八月にリゾートで別れて以来、一度も会ってないし……」
「え!? 大学が始まってからも一度も会ってないの?」
メイが驚いて訊き返す。
「うん……まあ……LINEやビデオ通話はしているけど、ルーと車を共有してたから一人で動けなくてさ。休日は中古車販売店を回ってたし。でもやっと自分の車を手に入れたから漸く会えるかなって……」
「……」
『まだ全然』という兄の言葉にマリルーは違和感を覚えた。交際を開始したばかりで離れざるを得ない状況になったとして。ユリウスの性格から、エドウィンとの関係を継続できると確信していなければ、“交際を始めることになった”という事実だけで安心することはないと思ったためだ。それで、聞いてみた。
「エド。ユリウスさんに好きだ、って言ったの?」
兄が彼に好意を伝えているなら二人は遠距離恋愛の状態で、兄が車を買うのを彼が大人しく待っているだけなのも納得できる。だがマリルーの予想に反して。
「そんなこと言うわけないだろ?」
「……そう?」
当のエドウィンは否定し、腑に落ちないながらもマリルーはそれ以上は聞かずにその話を終えたのだった。
*
エドウィンが車を買って最初の金曜日の夜、エドウィンは大学の講義が終わった後にヴァルム美術館へとやって来た。
ロビー中央のソファに腰掛け、腕時計に視線を落とす。P.M.6:25。普段ヴァルム美術館はP.M.6:00で閉館するが、金曜日の今日と土曜日はP.M.8:00まで開館している。エドウィン以外、ロビーに客はいない。磨き込まれた床に照明が柔らかく反射している。
――待ち合わせ時刻まであとたった五分なのに、妙に長い。
膝の上で手を組み直し、無意識に背筋を伸ばす。二か月ぶりに会う、リゾートで別れて以来、画面越しのやり取りだけで繋がっていた相手。
――会ったら、何て言えばいいのかな。
リゾートでの別れ際のキスを思い出して、今更ながら会うのが恥ずかしくなってくる。
――あのときはユリウスさんが寂しそうでつい、何度もキスしてしまったけれど、考えてみればまだ“お試し期間”なのに変だっただろうか?
エドウィンがそんなことを思っているうちに、エントランスの自動ドアが静かな音を立てて開き、反射的に顔を上げた。そこに立っていたのは、ダークグレーのスーツに身を包んだ、見慣れた長身の男だった。
「……」
一瞬、言葉が出なかった。胸の奥が、じん、と熱を帯びる。
「ユリウスさん……」
名前を呼ぶ声が、思ったよりもかすれていた。懐かしい姿に自然と口元が緩む。
「エド」
低く、落ち着いた声。変わらない彼の姿。エドウィンは立ち上がり、自分の方へ真っすぐ歩いてきた彼に向き直った。
「およそ二か月ぶりだな。来てくれてありがとう」
「お久しぶりです」
「私の車で夕食に向かおう。スタッフには言ってあるから、君の車は美術館の駐車場に停めたままで構わない」
「わかりました」
ユリウスが肩に優しく手を置き言うと、エドウィンは頷き、連れだって歩き出した。
エントランスから美術館の外に出ると、外はすっかり暗くなっていた。黒い支柱の上の逆円錐形の外灯が柔らかく白い光を投げかける無人の駐車場を歩いていたとき。
「エド……」
「はい……!?」
ユリウスはエドウィンを引き寄せきつく抱き締めた。
「会いたかった……!」
「ユ……ユリウス、さん……」
「私が……どんなに、このときを待ち望んでいたか……!」
驚き動揺しているはずなのに、エドウィンはふとユリウスからふわりと香ったオードトワレに気づき、頭の片隅で『この香り、好きだな。』などと思った。程なくして抱擁が解かれ、エドウィンが肩の力を抜いたのも束の間。何が起きたのか理解するより先に、ユリウスの体温が伝わってきた。
「! ……ん……ん……」
性急に口吻けられて目を見張る。角度を変え、何度か重ね合わされた後、それは離れて行った。
「……はは。いきなりでちょっと、びっくりしました」
赤くなりながら、明後日の方向を見てエドウィンが話す。
「……つい、君と会えた嬉しさに我を忘れてしまった。さあ、ディナーに行こう」
エドウィンは今起こったことに半ば放心しながらも、肩を抱かれてエスコートされ、一目で高級車とわかるユリウスの車に乗り込んだ。
予約していた店はヴェリディア市郊外の森へと続く道の途中にあり、二枚の板を合わせたような大きな三角屋根の山小屋風の建物だった。
「ハース・ロッジ……」
駐車場から店へと歩きながら、エドウィンが店名の書かれた看板を見て呟く。ストリングライトに照らされた、店の前のテラス席は今は静まり返っている。中に入ると縦長の大きな窓が印象的な、派手さのない落ち着いた照明と木目調の内装が広がり、店名の由来である大きな暖炉が奥で暖かい炎を揺らしていた。
金曜日の夜だけあって混んでいたが、控えめな音楽と穏やかに話す人々のさざめきが耳に心地良い。
すぐにウェイトレスがやってきて予約席に案内され、二人向かい合って座る。
「素敵な店ですね」
「実はクララのチョイスなんだ。ヴェリディア市のレストランを色々調べてくれてね」
エドウィンが率直に感想を言うと、ユリウスはややきまり悪そうに言った。
「クララさんの……」
どうりで、とエドウィンは思う。堅苦しすぎず、だが特別感がある。デートの夜に相応しい。
お互いの近況など他愛ない話をしながら、程なくして運ばれてきた料理を口に運ぶ。何度かともに食事したことはあったが、エドウィンはユリウスのきれいな食べ方に改めて感心した。暫く会話が途切れることもあったものの、不思議と気まずさはなかった。
――この沈黙は嫌じゃない。寧ろ安心する。
これからユリウスとともに過ごす時間が増えていくとして、この居心地の良い時間の延長に彼との交際があるのも悪くないと思えた。
やがて食事が終わり、ティーが出される。暫く静かに飲んでいたユリウスは徐にカップを置くと口を開いた。
「……エド。君と交際を始めて二か月が経った」
「え……」
――二か月? 今日が初めてのデートなのに?
エドウィンが内心疑問に思うが、ユリウスは続けて。
「そろそろ君と正式な恋人になりたいと思っている」
――こ、恋人?
エドウィンはカップをソーサーに戻し、ユリウスを見つめた。
「君との関係に明確な名をつけたい。君の周囲には同年代の魅力的な若者がたくさんいて、君に好意を持つ者がいるかもしれない。……君も誰かに好意を持つかもしれない」
「そんな……」
ことはないと続けようとして、ただ自分が考えなかっただけでその可能性があることに気づき、エドウィンは口を噤んだ。
「ただでさえ私たちには年齢差と物理的な距離があって不安なんだ。恋人になれば私も安心できるのだが」
エドウィンにもユリウスの言っていることは理解できた。だが。
「……以前あなたは俺のセクシャリティの話をして……俺にとってあなたが恋愛対象に成り得るという結論は出ました。でも今の時点で、これからあなたとデートを重ねていって本当にドキドキするのか、あなたなしの生活が考えられなくなるくらい好きになるか、判断するのは難しいです」
エドウィンが慎重に答えると、ユリウスは真っすぐに彼を見た。
「恋人という関係が必ずしも燃えるような、情熱的な愛から生まれる必要はない。信頼、尊重、互いの人生に関わりたいという意思……それらが根底にあればいい」
「……」
信頼、尊重、互いの人生に関わりたいという意思。ユリウスに対して、それらはエドウィンの心にあった。でも、とエドウィンは思う。そもそもユリウスは付き合うには無理のあり過ぎる相手で、エドウィンには到底手の届かない高級車に乗っていること一つとっても、年齢差や距離の他に圧倒的な経済格差があった。
――それでも。ユリウスさんは俺と恋人になりたいと思っているんだよな。
恋人という関係に踏み出すことへの不安を完全に拭い去ることはできなかったが、もともと困難を承知の上で始めた交際であるが故に、今更相手の境遇を理由に尻込みするのはナンセンスな気がした。それでも、すぐに頷くのではなく、ワンクッション入れる提案をする。
「……恋人になる前に。ハーバータウンで一日……いえ、家に泊まってもらって一泊二日でもいいですが、過ごしてみませんか? 前にいらしたときは忘れ物のスケッチブックのせいでゆっくりしてもらえなかったし……俺が育った街を、知って欲しいんです」
エドウィンにはユリウスにハーバータウンを知ってもらうことが必要だと思えた。自分は彼の責任の重さをヴァルム美術館の盗難事件やレイクサイド・クレストで目の当たりにしている。彼にもエドウィンの生活を同じ目線で見て欲しかった。
「エド……」
静かに聞いていたユリウスは穏やかに微笑んだ。
「ああ。いい考えだと思う。早速日程を調整しよう」
そして、“恋人”と言う関係に向けて、歯車は静かに動き出した。
*
次週のある日。平和なキャンパスで突如、学内アナウンスが響いた。
『経済学部棟8階研究室フロアは、設備点検のため当面立ち入り禁止とします。なお、シモンズ教授の講義は本日以降、暫く休講となります』
「どうしたってんだ?」
エドウィンと一緒にいたライリーが首を傾げる。シモンズ教授は経済学の権威で、政府高官から政策に対する助言を求められることもある知識人である。二人はまさに彼の講義に向かうところだった。そのとき、エドウィンのスマホが鳴った。
「大学の事務室からだ」
エドウィンが電話に出る。
『経済学部一年のエドウィン=ベネットですね?』
「はい」
『至急シモンズ教授の研究室へ。教授がお待ちです』
「わかりました。すぐに行きます」
なぜ自分が呼び出されるのかわからなかったが、即座に答えて電話を切った。
「電話、何だったんだよ?」
「それが……立ち入り禁止のフロアにあるシモンズ教授の研究室に来い、って」
怪訝な顔で訊くライリーにエドウィンが答え、彼と別れると研究室へと足を向けたのだった。
経済学部棟8階研究室フロアに行くと『立ち入り禁止』と書かれたスタンド看板が置いてあったが、呼び出された身のエドウィンは構わずにシモンズ教授の研究室を目指した。
研究室には教授と助手、研究員そして大学の事務員がいて、皆一様に深刻な顔をしており、エドウィンの姿を見とめると教授は白い眉を上げた。
「おお、エドウィン。よく来てくれたね。実は困ったことになってのう……」
豊かな白い髭を落ち着きなく撫でながら、教授が眉間に皺を寄せる。
「どうやら“レジェリア未来の経済予測モデル” に関するデータが盗まれたようなのじゃよ」
「え……」
「あのデータは特定の企業にとって巨額の利益をもたらす可能性があるのじゃ」
シモンズ教授の研究は常に注目を集めているが、“レジェリア未来の経済予測モデル” に関するデータは特に機密性が高いはずだった。
「教授。いつ、どのようにデータが盗まれたかは分かっているんですか?」
エドウィンは“なぜ自分が呼ばれたのか”よりも、即座に事の重大さを理解して捜査に協力すべく、尋ねた。
(後編に続く)




