第八話「湖畔の避暑地」Ⅱ 湖畔の夜
「これは……エリザベッタ様の足跡ね。チワワは雨の後の散歩は避けるから、外の土ではないわ。鉢植えの土かしら?」
エドウィンとマリルーは部屋に戻り、鉢植えをチェックする。
「やはり鉢植えの土だ。端の部分が湿っていて、棒でも差したような穴が開いている」
二人は更に、部屋の隅にあるペットベッドの近くに、犬用の高価な首輪とリードが無造作に放り投げられているのを見つけた。
「犬を連れ出す人が、首輪とリードを外していくかしら? 盗むならそのまま連れ出すはずよ」
「ああ。それに、清掃係の入る時間を知っていたのも気になるな……」
エドウィンが妹の意見に頷いた、そのとき、マリルーがあるものに気づいた。
「見て、エド」
マリルーはバルコニーへと続くテラスドアの傍にあるサイドテーブルに置かれた、蓋の開いた錠剤の瓶を持ち上げた。エドウィンが瓶を受け取り、ラベルを確認する。
「睡眠導入剤……それほど強くはないものだ。これはベルナルディ様のものですか?」
エドウィンがカーラを振り返ると、彼女は腑に落ちない顔をして頷いた。
「ええ、そうよ。ちゃんと蓋は閉めておいたはずだけれど……」
「ベルナルディ様。エリザベッタ様は自らここを出たわけでも、誰かに盗まれたわけでもなく、隠されたのだと思われます」
マリルーは静かに断言し、続ける。
「バルコニーの仕切り付近の床に付いている土の痕跡は、恐らく鉢植えの土です。ご子息が犬を隠す動機にお心当たりはありませんか?」
「動機……そんな……本当に、息子が?」
カーラは動揺して落ち着きなく目を泳がせた。
「ベルナルディ様。隣室のご子息に話を聞いてみましょう」
「わ……わかったわ」
エドウィンの提案にカーラが頷き、三人は隣室を訪ねることになった。
「ウベルト、いるの?」
カーラが呼び掛けながら隣室のドアをノックするが、応えはない。焦れてドアノブに手を掛ける。鍵は掛けられていなかった。
「入っても構わないかしら? ウベルト、入るわよ!」
カーラはドアを開け、三人は部屋の中へと入った。ウベルトの部屋も同じく豪華だが、母親の部屋とは対照的に整理整頓されていた。
双子は中に入ると、すぐに違和感に気づいた。それは窓辺のソファの下に敷かれた、ごく小さな木製の板だった。
「何かの踏み台だろうか?」
エドウィンが板を拾い上げ、埃を払う。マリルーはソファのクッションを外し、その下を探った。
「これは…チワワの毛ね。このソファの布地も僅かに土で汚れているわ」
エドウィンが部屋を見回し、クローゼットの扉に近づいた。
「エリザベッタ様、そこにいるのですか? ご主人様が心配しています」
エドウィンが優しく語りかけると、クローゼットの奥から『クゥーン』という小さな鳴き声が聞こえ、反射的にクローゼットを開ける。すると服の山の奥にチワワが少し震えながら丸まっていた。
「エリザベッタちゃん!」
カーラはすぐさま犬に手を伸ばして抱き上げ、喜びと安堵で涙ながら抱きしめた。
エドウィンとマリルーは犬が見つかったことをタビサに報告し、オフィスへ戻ってから一連の出来事を話すと、タビサがその後処理を引き受けることとなった。
そして夕方。一日の業務を終え、三人がオフィスに揃ったとき。タビサによると、やはりカーラの息子ウベルトが母親の犬を一時的に隠したということだった。バルコニーから母の部屋に入り、プリンセスに睡眠導入剤を無理やり飲ませた際、暴れられて水が鉢植えに零れ、彼の腕から抜け出した彼女の足が濡れた土を踏んだ。隣室に運ぶ間もバルコニーの仕切り板の辺りでまたウベルトから抜け出し、足跡が付いた。痕跡はそのときのものだったのである。
「彼に動機を尋ねたら、」
言いつつ、タビサが理解できない、といった顔をする。
「そうすれば、母親は自身の溺愛が原因でペットが狙われたと思い込み、滞在を切り上げて帰ると考えたのですって。彼は母親とのバカンスを望んでいなかったようね。早く帰って元の生活に戻りたかったと」
「へえー…そんなこともあるんだな」
ライリーが富裕層の考えることはわからない、といった風に呟く。
「犬がクローゼットの奥に隠されていたのは、すぐには見つからない程度の場所にすることで、母親への“軽い警告”にしたかったのだと思います」
エドウィンが言い足す。
「その通りね。これは外部の犯行ではなく、家族の思い違いによる、ご子息の小さな悲鳴だったのよ。……ユリウス様があなたたちを雇った理由がわかったわ。これからもその調子でよろしく頼むわね」
タビサは初めて彼らに微笑んだ。
その夜。
「初日は小さな事件だけで終わったわね」
昨日と同じように三人集まって従業員用の食堂で夕食を摂っていたとき、マリルーが言った。
「ああ。無事に勤めることができてよかった」
「この調子で頑張ろうぜ!」
エドウィンとライリーが相槌を打つ。
それから。食事しながら他愛のない話をしていたのだが、ライリーがふと思いついたように。
「なあ、火曜と水曜は休みだろ? せっかくリゾートに来てるんだ。遊びに行かねえか?」
と提案した。
長期滞在の客が多いとは言え、金~月曜日に比べて比較的客数が少ない火水は休みに設定されていた。
「いいわね! 私、カヌーとか乗ってみたいわ!」
「おっ! 俺もそう思ってたんだよ!」
ライリーがマリルーの同意に勢いづく。そして少しきまり悪そうに。
「そんで、さ。一人乗りも三人乗りのものもあるけど、誰かもう一人……できれば女の子……に声かけてさ。二人乗りのカヌーに順番に乗る、ってどうよ?」
「……クララさんも誘う、ってこと?」
マリルーが眉を顰めるが。
「まっ、まさか! 新しい友達、って意味で! 俺たちのような短期バイトに一人で参加している娘を見つけたんだ。彼女を誘ってみてもいいかな?」
ライリーの言葉に双子は冷めた目を向けた。
「何だよ? 二人とも、あまり乗り気じゃなさそうだな」
ハーバータウン観光のときはメイが一緒にと望んだから付き合ったが、双子は特に新しく誰かと知り合いたいと思っているわけではなかった。
「ああ。俺、あまりそういうの、興味ないんだ」
「私も」
「うげ、マジかよ! けど友達は多ければ多いほどいいぜ?」
「「……」」
明るく言うライリーに二人が沈黙するが、マリルーが先に口を開いた。
「ライリー、あなたは彼女を一対一のデートに誘うことに気後れしているの? 複数なら彼女もOKしやすいと? ……でも考えてもみて? 複数で会うことが前提になればずっとそうなるわ。それに……彼女がエドに興味を持つ可能性だってある」
「……ははっ、そうか……そうだよな。なら俺、一人で頑張ってみるよ」
マリルーの言い分に最終的にライリーは納得して。
「そんでもし……ダメだったら、そのときは一緒に夏の思い出作り、してくれるか?」
「ああ、もちろん」
「いいわよ」
双子は頷き、微笑んだ。
夕食後。三人はそれぞれの部屋に戻った。
私服に着替えてエドウィンが部屋で寛いでいると、スマホがメッセージの受信を告げた。確認するとユリウスからだった。
Julius:少し話せないか?
――なんだろう?
勤務時間はとうに過ぎている。不思議に思ったものの、エドウィンはすぐに返信した。
Edwin:はい、大丈夫です。
Julius:では10分後にラウンジで。
Edwin:わかりました。
「ライリー、俺ちょっと出てくる」
エドウィンはそう言って立ち上がり、ハーフスリーブのシャツをTシャツの上から羽織ると部屋を出た。
ホテル1Fのラウンジは白い光沢のある大理石の床に、グレーの円形カフェテーブルとシックな黒い椅子のセットが十分な間隔を空けて置かれた広い空間で、パノラマウィンドウからは瀟洒な外灯の明かりに浮かび上がる幻想的な夜の湖が見えた。客の姿はまばらで、ゆったりとしたクラシック音楽が流れている。
――俺、こんな格好で来てしまったけど、大丈夫かな?
エドウィンはラウンジに足を踏み入れるのを一瞬躊躇したが、ラウンジの奥、窓辺の席に座っていたユリウスが微笑み軽く手を振ったのに気づき、意を決して彼の方へと歩き出した。
「こんばんは。話って……」
「とりあえず、掛けてくれ」
エドウィンが近付き話しかけるとユリウスが椅子を勧めたので掛ける。彼は黒いスウェットシャツとオフホワイトのストレッチスラックスを合わせたラフな格好で、仕事の話をするために呼び出したのではないとエドウィンが判断する。寛いだ服装にも関わらず、やや暗めの照明とこの豪華なラウンジが、ユリウスをより一層魅力的に見せていた。
「何か飲むか?」
「いえ、特には……」
慣れた手つきでメニューを差し出されたものの、エドウィンにはこの場所も飲み物も不釣り合いに思えて、早く話を終えて立ち去りたかった。だが。
「せっかくこのリゾートに来たのだから、プラムのジュースを飲んでみないか? この辺りの名産なんだ」
「……ではそれを」
名産品と言われては断りづらく、エドウィンは仕方なくそれを頼むことにした。ユリウスが手を上げてウェイターを呼びオーダーする。
「さて……」
ウェイターが行ってしまってから、ユリウスはエドウィンに向き直り、微笑んだ。
「仕事の方はどうだ? 期間中、やっていけそうか?」
「ええ。ホテルの平穏を守る、やりがいのある仕事です。改めて、この仕事を紹介してくださり、ありがとうございます。あなたの期待に応えられるよう頑張ります」
「そう言ってくれて私も嬉しい」
ユリウスはエドウィンの目を見つめながら、心からの言葉を返した。当初の計画通りエドウィンと同室になれれば、この休暇を通して徐々に親睦を深めていくつもりだったのだが、彼がライリーと相部屋になった以上、自身とは仕事上の関わりしか持てない。故にユリウスは今のようにエドウィンを呼び出すというアクションを起こしたのだ。
程なくしてウェイターが来てプラムジュースが前に置かれた。
「……美味しい」
遠慮がちに口を付けたエドウィンが思わず呟くと、ユリウスは満足そうに微笑んだ。彼はグラスワインを飲みながら、暫く他愛のない話をした後、
「実は君に訊きたいことがあるんだ」
と本題に入った。
「君が過去に交際した人、或いは好きだった人でもいい。それらの人のことを教えてほしい」
その質問は、過去の恋愛遍歴から彼の性的嗜好を知るためだった。ユリウス自身はバイセクシャルだったが、エドウィンについては今まで確認する機会がなかった。自分は彼にとって恋愛対象に成り得るのか。それはとても重要なことだったのだが。
「……え?」
エドウィンは目を瞠り固まってしまう。
――なぜそんなことを訊くんだろう?
「……それは、あまり……覚えていないというか……ええと……いえ、いません」
不思議に思ったが刹那の沈黙の後、当惑しながらもエドウィンがポツポツと答える。
「いない?」
ユリウスは驚いて訊き返した。エドウィンの年齢ならば、恋愛の一つや二つ、当然経験があると思っていたからだ。
「俺……幼い時からじいちゃんに厳しく武道の稽古をつけられて……ついていくのに必死でした。母が祖母の店を継いだり、父の首都赴任とか家庭内の大きな変化もあって、何というか……家族以外の誰かが自分の心に入る余裕がなかったというか……」
エドウィンは正直に自分のこれまでの人生を話した。ユリウスは彼の話に静かに耳を傾ける。
「それに俺……ルーがいたからか、他の誰かと新しい関係を築く必要性を感じなかったというか……あ、もちろん友達はいましたよ?……けどさっきも、ライリーにグループデートに誘われたんですけど、新しく誰かと知り合うことに魅力を感じなかったんです。……すみません。俺、上手く説明できなくて……」
エドウィンが不安そうな目を向ける。
――ああ、そうか。
聞き終えて、ユリウスは思う。エドウィンの今までの人生は彼のキャパシティがいっぱいになってしまうほどの厳しい鍛錬や環境の変化で、彼自身の性的嗜好はおろか恋愛についてさえ理解する機会を得られなかったのだと。
それでも。ユリウスには彼を諦めるという選択肢はなかった。今までなかったSPSという仕事を新設してまで一緒にいたいと思うくらい、彼に恋していたのだから。
――ずっと友達のままではいたくない。何とか彼との関係を前に進めたいが……
恋愛にあまり興味がない相手にどうアプローチすべきか、ユリウスは考える。
――『好きだ』と告白するのは得策ではない。
明確に好意を伝えてしまうと、相手に恋愛関係になるかならないかで答えを求めているというプレッシャーを与えてしまう。同時に同性が恋愛対象に成り得るのかという、自身のアイデンティティに関わる問いを突き詰めて考えさせることになりかねない。
――ここで彼を追い詰めてはだめだ。
ユリウスはそう判断すると、慎重に言葉を選び、口を開いた。
「……ああ。ちゃんと君の説明で理解できたよ、エド。……それで、だ。私は君が私にとって、友人以上の存在になる可能性があると感じている」
「え……」
「君のセクシャリティに関わらず、私は君自身に興味がある。だから……私たちがお互いに恋愛対象に成り得るかどうか、試してみないか? 無論、すぐに返事をする必要はない。時間をかけて、ゆっくり考えてみてほしい」
「……」
エドウィンは予想外のユリウスの提案に、あっけに取られて彼を見つめた。顔が熱くなり、自身の心臓が早鐘を打っているのを感じる。今まで頼りになる兄のように思っていたはずのユリウスに『友人以上の存在になる可能性』を示唆されたことで突然、彼が大人の男性であることを改めて意識する。
「……はい。少し、考えさせて下さい」
エドウィンはやっとのことで、小さく返事をした。
(Ⅲに続く)




