第9話 二段の階段
箱の角の黄色い紙が、半分めくれていた。同じ台車だった。
「すみません。そちらへ行っても、またここに出ますよ」
遥が声をかけると、配達員は車輪を踏んで止めた。額の汗を袖で拭い、二人を見た。
「今も、ここにいましたよね」
「はい」
「表へ回ろうとしたんだけど」
男の手から伝票が落ちた。拾いながら、三時には着くって言ったんです、と繰り返す。
電話で呼んだ店主も、二人の十歩ほど手前から近づけなかった。こちらへ手を振りながら建物の角へ重なり、次には元の場所にいた。
遥は叫んだ。
「もう来ないでください!」
店主は両手を下ろし、自分の足を見た。
「そっちから、戻れるか」
「裏口、開けておいてもらえますか」
頼んでから、自分は本当にそこへ出られるのかと思った。
二段の階段。上の段の白い角。さっきリタに話したばかりだ。なのに、靴を置こうとすると段が遠ざかる。壁へ手を当てる前から、踵が浮いている気がした。
「遥?」
リタが呼んだ。遥は右足を踏み直した。
「店の裏に、行きたいんだけど」
「見えないの?」
「見える。絵みたいに。でも、そこに立てない」
配達員が、閉じた窓を向いた。
「今、娘の声が」
窓は二階にあった。なのに男は、すぐ手が届く高さを見ている。
「行かないで」
遥が袖をつかむと、男は台車へ寄りかかった。窓の向こうから、もう一度パパ、と聞こえた。
リタが赤い糸を出した。こちらの車止めへ端を結び、商店街のほうへ送る。糸は台車が何度も出てきた角へ曲がり、今度は戻ってこなかった。
店主が、向こうから呼んだ。
「赤いのが来てる」
「そこの柱に結んでください」
リタが言った。向こうの柱の脇は、買い物の帰りに二人で歩いてきたところだった。
店主が結び終わると、リタは糸を下から支えた。
「こっちへ戻れる。道はまだあるよ」
遥も触れた。指に熱があり、糸は角の先へ続いていた。
その先に、どちらを向いて立つのかは分からない。窓から男の子を呼ぶような声がして、配達員がまた動いた。遥はつかんだ袖を離さなかった。
「そこにいないです」
「どうして分かるんですか」
答えられず、裏口のほうを見た。店主が扉を開ける音がした。
重い扉だった。空き箱をもらった帰り、両腕が塞がっていて、足で押さえて叱られた。上の段はいつも湿っていて、右足を少し外へずらさないと滑る。
遥は靴の中で指を曲げた。箱の底が顎につかえるほど抱えても、あの二段は下りられた。
「リタ、まだ結んでおいて」
右手を壁へ当てた。
*
四角の中に、二段の階段があった。すりガラスの扉は開き、店主が口を開けたまま立っている。
「この人、先にお願いします」
配達員は穴と壁を見比べた。台車の持ち手から指が離れない。
「荷物は?」
「あとで。まず、そちらへ」
遥が言っても、男はまだ動かなかった。リタが伝票を拾い、胸のポケットへ差した。
「娘さん、家で待ってるんでしょう」
男が頭をかがめた。店主が差し出した手を取ると、糸が低く震えた。
四角の上が狭まる。遥は右肩を壁へつけた。まだ男の背中がこちらにある。振り向かないで、と言いかけたとき、店主が腕を引いた。
「出たよ、遥」
リタの声で、ようやく息を吐いた。
続いて籠と牛乳が渡った。リタが糸の結び目を見ている。ほどこうとすれば、出口から離れなければならなかった。
「そっちの端は、あとでもらえるかな」
店主に尋ね、リタはこちらの柱のすぐ先で糸を切った。切れた赤を見てから、残りを腕へかける。
遥の膝が曲がった。
下にあるはずの地面がない。目を落とせば、靴はちゃんとついていた。
「遥、先に行く?」
「行って。向こうで、左手」
リタが四角をくぐった。店主に背中を支えられて顔をしかめたが、すぐ振り向いた。
取ってくれた手を、遥は握った。
右は壁。左はリタ。向こうの段に足をかけたつもりが、つま先だけを擦った。
「もう少し上!」
リタに引かれ、ようやく足が乗った。右手を離す。
線が崩れた。袖がどこかに掛かり、冷たい声が耳元へ来た。
お姉ちゃん。
遥の足が止まりかけた。
左の手が痛くなった。リタが両手で握り、体ごと後ろへ下がっていた。袖が抜け、二人とも階段を踏み外した。
店主に受け止められた遥の肩へ、リタがぶつかった。
振り返ると、白い壁があった。
低い所に六つの傷が残っていた。一つだけ深い。遥はそこから目を離し、握っているリタの指を見た。
「戻った」
声に出してから、遥はリタを見た。
リタは答えず、握っている手を一度下げた。遥の足が地面についているか確かめるように、自分も少しかがんだ。
「立てる?」
「うん」
それでも、店主が水を持ってくるまで手はほどけなかった。




