第10話 帰ってから話す
椅子に座ると、膝が震えていることに気づいた。
遥は買い物袋を足元へ置き、右手の指を一本ずつ曲げた。痛くはない。けれど力を入れると、手首までこわばった。
店主が水を持ってきた。配達員の前にも同じ紙コップが置かれる。
「まず飲んで。話は、それからでいい」
リタは椅子の端に座り、長い赤い糸を巻いていた。向こうの柱に結んだ端は、店主に頼んで外してもらったらしい。切った短い方だけが、あちらに残っている。
布へ戻ったわけではない。リタの膝の上で、小さな輪が一つずつ増えた。
遥は水を飲み、叔母からの着信へ折り返した。
今は商店の中にいる。配達員は出られた。リタも自分も歩ける。
そこまで伝えると、叔母は店主に代わってほしいと言った。遥は電話を渡した。
店主は電話で何度も「本当に壁から」と説明していた。遥は目を閉じたくなった。叔母が一年前から知らなかったことを、知らない人のほうが先に見てしまった。
配達員が紙コップを持つ。まだ飲んでいない。
「角で、娘さんの声がしたんですか」
配達員は頷いた。
「パパ、って。いるはずないのに、迷って来たのかと思って」
追うたびに同じ場所へ戻った。途中からは妻の声までしたという。
「子どもが転んだから来てって。そう言われたら、放っておけないでしょう」
遥は返事ができなかった。
男はその場で家へ電話した。妻も娘も家にいた。
「よかった」
リタが言った。配達員はようやく水を飲んだ。
*
店主と配達員が表から回って確かめる間、二人は店内に残った。
遥はもう一度出口を作ろうと思わなかった。右手を机につくと、指の先が小さく震える。リタも背中をさすっていた。
「痛い?」
「さっき、支えてもらったところが少し。でも、転ばなかった」
「おばさんにも言おう」
冷蔵庫に入れてもらった牛乳の箱には、店主が二人の名を書いた紙を貼ってくれた。リタはそれを見て、家のリンゴと同じだ、と言った。
しばらくして、男たちが戻った。
台車は見える。でも、近づこうとすると別の角へ出る。リタの切った短い糸も、柱に残っていた。
「誰も入らないよう、店の者に見ててもらってる。警察にも、通れない道があるって連絡した」
店主が言う。
「説明は難しかったけどね。来てもらって見てもらうしかない」
配達員は表のガラス越しに、台車を見ていた。自分だけ帰ってきたことが落ち着かないらしい。黄色い紙のついた箱は、まだ角を待っている。
リタがそっと顔を寄せた。
「助けられたのに、治らない」
「うん」
「ずきんの糸、結び直したら?」
言いかけて、リタは自分で首を振った。
「でも、それは道を見つけるだけだね」
遥はノートを閉じた。
リタは糸の切れた所を布の内側へしまった。昨日の路地は今朝には戻った。あそこも、この台車も、誰かが持っていなければ帰ってくるのだろうか。
遥は店の扉を見た。紬のいるはずの家へ向かって歩くのが、今日は怖かった。
五時を過ぎていた。
叔母から、迎えに行く、と届いている。勝手に家へ帰ろうとせず店で待つように、とも。
遥は了解と返した。けれど、もう一つ返事をしなくてはいけなかった。
昨日リタを逃がしたときにも、今日と似た壁ができた。その前にも。
黙っている間に、誰かの娘の声が、別の角でまた使われるかもしれない。
「リタ」
呼ぶと、彼女がこちらを向いた。
「前に見た傷の話。帰ったら、聞いてくれる?」
リタはすぐに、うん、と言った。
遥は鞄の口を閉めた。右手ではうまくつかめず、左手で持ち上げる。
語り出す順番は、一年前から考えていた。始められなかっただけだった。
「私、前に、手を離したんだ」
リタは籠を置いた。
「誰の?」
遥は答えを、迎えに来る叔母の足音に重ねないよう待った。
*
叔母は店へ入るなり二人の顔と手を確かめた。
店主と配達員から話を聞き、通れなくなった道は警察へ任せた。
帰り道、叔母は牛乳の袋を持ったまま言った。
「連絡してくれたから迎えに来られた。でも、二人も帰れなくなったら、誰が迎えに行くの」
遥は答えなかった。
「私にも帰ってきてほしい人がいる。何ができなかったかも、ちゃんと教えて」
家へ着くまで、リタは祖母のことを考えた。遅れる、と一言だけでも届けたかった。
*
夕飯には、買ってきた玉ねぎとにんじんが入った。
頼まれた買い物が終わったことを確かめ、余った硬貨を叔母へ返した。
遥は食卓を拭いた。妹の席の前だけ、手を止める。
リタはその椅子を見てから、遥を見た。
「さっき言った話、今でもいい?」
遥は布巾をたたんだ。
「うん。ここで」
叔母は台所の手を止めた。遥が彼女の方を見て、首を横に振る。
「おばさんも、いて」
三人が座り直した。
鍋の湯気はもう薄くなっていたが、食卓の灯りは、まだ消されなかった。




