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第11話 紬

遥は空いた椅子を見た。


 テーブルの短い辺、窓に近い席。朝なら庭が見える。夜の今はガラスに食卓が映り、座っていない人の場所だけが暗かった。


「紬っていうの」


 名前を口にすると、叔母が顔を上げた。


 リタは聞き返さずに待っている。


「私の妹。あそこに座ってた」


 遥は椅子を指ささなかった。リタの目がそちらへ動いたので、それで分かった。


 道瀬紬。


 学校からも、警察からも、その名前で電話が来た。家で呼ぶときは、ただ紬だった。早くして、紬。あとでね、紬。その名前を、本人へ向けずに話すことには、今も慣れなかった。


「今は帰ってないの?」


「一年前から」


 リタは赤いずきんの端に触れた。糸を出すのではなく、膝の上へ布を集めただけだった。


「別の家にいるんじゃなくて?」


「どこにいるか、分からない」


 遥は右手を左手で包んだ。少し前まで震えていた指が、今は動かなくなる。


「私が道を開いたときに、消えた」


 台所の方で、小さく水が落ちる音がした。


 蛇口を止めたあと、洗い物から滴っているだけだ。遥はその音を数えた。二つ。三つ。次が落ちる前に、叔母が口を開いた。


「その話を、私は今日まで知らなかった」


 声は怒鳴るときのものではなかった。遥はそちらを見た。


「一緒に帰る途中で、急に見えなくなった。それは聞いてた。でも、遥が道を作ったとは」


「言わなかった」


「どうして?」


 遥は何度も用意した答えを探した。


 信じてもらえないと思った。怖かった。妹を消したと思われたくなかった。


 用意していた言葉は出てこなかった。叔母がこの椅子を動かせなくなった理由を、自分は一つ増やそうとしている。


「最初は開き直せば戻せると思ってた」


 リタが顔を上げた。


「自分で戻してから話そうって。そうしたら、紬も一緒にいて、どうやって通ったか話してくれると思った」


「戻せなかった?」


「何度やっても、紬がいなかった」


 叔母が唇を閉じた。


 遥は見ていられず、机の上へ視線を落とした。


「言うのが、どんどん遅くなった」


 見つからない妹の話を聞きながら、自分だけが何かを隠している。電話が来るたび、先に言えばよかったと思った。それでも、来た電話への返事を終えると、また黙った。


「リタの前でも、最初は使いたくなかった」

 遥は机の傷を指でなぞった。

「もうひとり消えたら、どうしたらいいかわからないから」

「わたしを先に、出したね」

「そのほうが早かった」

 顔を上げられなかった。

 叔母がコップを端へ寄せた。空の席の前を拭くとき、布巾が一度止まった。


「紬、どんな子?」


 リタの問いに、遥は息を止めた。


 いつ消えたか。最後に何を着ていたか。どの角で姿が見えなくなったか。それなら何度も答えた。


 どんな子か、と聞かれると、探している紙には載せなかったものが浮かんだ。


「パンの端、最後に残す」


 口から出たのは、そんなことだった。


「嫌いなの?」


「違う。焼いたところが好きだから、最後に食べる。残してると思って取ると怒る」


 叔母が小さく息を吐いた。


「最初に取っておけばいいのに、って言ったね」


「ずっと前から食べていきたいんだって」


 遥は椅子を見た。


 紬の皿からパンの耳をつまんだことがある。嫌いだと思ったのではなく、取ったらどんな顔をするか分かっていたから。紬は眉を寄せ、遥の皿から玉ねぎを一つ取っていった。


 今日も玉ねぎを食べた。遥の皿から取る人はいなかった。


「道、覚えるのは上手だった?」


 リタが尋ねた。


「上手だったと思う。私が急ぐと、こっちは遠回りだよってよく言ってた」


「じゃあ、帰ろうとしたと思う」


 遥は顔を上げた。


「戻れた、とは言ってないよ」


 リタは続けた。


「私、落ちたあと、何度も森へ戻ろうとした。あの子も、知ってる道を探したんじゃないかな」


 遥は空いた椅子の背を見た。泣いている妹しか想像していなかった。道に迷ったら怒る子だったのに。「お姉ちゃん、そっちじゃない」と先へ歩くことも、あったのに。


「鈴、持ってた」


 遥は鞄のポケットへ手を入れた。紬の物はそこにはない。自分のスマホを出し、古い写真を探す。


 庭で叔母と並ぶ写真。その前に、鞄を抱えた紬がいる。持ち手の下に、小さな鈴が光っていた。


 リタに画面を見せた。


「これが紬」


 リタは覗き込み、妹の顔を見た。それから鞄の鈴を、指で触れないように示す。


「音で分かる?」


「端が長いでしょ。自分で結んで、切りたくないって言ってた。鞄に当たるから、歩くと音が二つする」


「会ったら、聞いてみる。どうして長くしたの、って」


 遥はうなずいた。画面を消す前に、自分でも顔を見た。最後に見たのは、この写真よりあとだった。白い袖。握っていた鞄のひも。


「あの日、雨が降りそうだった」


 遥はスマホを机に伏せた。


「私、早く帰ろうって言ったの」


     *


雨はまだ降っていなかった。


 駅前の店を出ると、風が歩道の紙くずを押した。遥は空を見上げ、紬の手首を軽くつかむ。


「走れば間に合う」


「何に?」


「降る前に家」


「そこまで急がなくても」


 紬が笑った。白い袖の先から出た手で鞄を抱えている。持ち手につけた鈴が、走らなくても小さく鳴った。


 いつもならバス通りへ出て、信号を二つ渡る。遥は手前の路地へ紬を連れた。近道、と言うと、妹は立ち止まる。


「ここ、行き止まり」


「知ってる」


 能力は、それより前から使えた。


 初めて壁の向こうへ手が通ったときは、自分がどうかしたのだと思った。怖くて、二日間そこへ近寄らなかった。


 でもまた試した。自分の部屋から庭へ。塀の外から庭へ。庭なら、素足でも歩けた。砂利の途切れるところへ道が開いた。


 誰かに見せたことはなかった。


 この日、遥は紬に見せようと思った。


「絶対、びっくりするよ」


「何をするの」


 紬は鞄を持ち直した。


 遥は路地の壁へ右手を当てた。行き先は家のそば。白い鉢が置かれ、物干し台の影が落ちる場所だった。


 掌の下に線が走る。


 紬が一歩引いた。


「え、何」


「通れるの。すぐ家の近く」


 四角が開き、鉢の白が見えた。いつも通りの出口だった。遥は紬の顔を見て、驚かせられたことが少しうれしかった。


 紬はすぐには近づかなかった。


「大丈夫なの?」


「私、何回も通ってる」


 遥は左手を伸ばした。紬がその手を取る。


 右手は壁から離せない。だから紬を先に通す。ひとりなら何度もできたことが、二人でも同じだと思っていた。

 妹の手を一度引いてみせると、紬は笑った。怖がっているのに、姉の言うことだから足を出した。


「向こうで待ってて」


 紬は四角に足をかけた。


 鈴が一度鳴った。


 その先の鉢が、急に遠くなった。


 白い鉢が、路地の先まで退いた。紬の靴だけが四角の中に残っている。

「待って」

 自分から通れと言っておいて、今度は待てと言った。妹は止まろうとした。


 紬の左足が、見えていた地面に着かなかった。


「お姉ちゃん」


 声はすぐ近くだった。


 遥はつないだ手を引いた。紬も握り返した。白い袖の肩が戻りかけ、鞄の角が四角の端へ当たる。


 そのとき、暗いものが間を横切った。


 歯だった。


 人の顔は見えなかった。六つの尖った白が、開いた道の縁へ並び、端の一つが深く食い込んだ。


 右手の下から、道がずれた。


 遥は壁へ肩をつけて踏ん張った。紬の指が手の中で滑る。


 離さない、と言おうとした。


 声が出る前に、右手の下の壁が固く戻った。


 つないでいた手が空になった。


 鈴の音も消えた。


     *


「手を離したの?」


 食卓で、リタが尋ねた。


 遥は目を開けた。壁は目の前にない。叔母とリタが座る、夜の家だった。


「どっちの手も、離したつもりはなかった。でも、出口がなくなった」


 リタは腕を伸ばさずに聞いていた。


「それから?」


「同じところへ開き直した」


 何度も右手を当てた。


 はじめは線も出なかった。少し休んでから、もう一度作った。白い鉢があり、物干し台があった。今度はいつもの距離だった。


 向こうへ通った。


 紬はいなかった。


 家へ走ると、叔母が台所にいた。紬はまだ帰っていない、と言われた。遥は路地へ戻った。日が落ちても、同じ場所へ手を当てた。


 何度目かの出口で、叔母に見つかった。


 開いたところは見られなかった。遥が知らない路地の壁に寄りかかっているのを見て、叔母は腕を引いた。


 紬が消えた、と言った。


 壁に作った道の中で消えた、とは言わなかった。


「叔母さんに、どうやって消えたって言ったの?」

 リタが尋ねた。

「角を曲がったら、いなくなったって」

 叔母の指が机から離れた。

「だから、あの角ばかり……」

 そのあとが続かなかった。遥は目を閉じた。自分が言わなかった一つの壁のために、叔母は知らない角をどれだけ歩いただろう。

「ごめん」

 遥は次の言葉を飲み込んだ。

 叔母が席を立ち、水を注いで戻った。三つのコップを置くまで話さない。


 リタがノートを自分の方へ寄せる。


 六つの線の下に指を置いた。


「私の道にも、歯があった」


「うん」


「今日の壁にも、似た傷があった」


「そう」


「噛んだものを、見つけよう」

 遥は顔を上げた。

 リタは六つの線をなぞり、最後の深い一本に鉛筆の先を置いた。

「誰が道を噛んだのか、ここから探そう」

 叔母が飲まなかった水の縁で、食卓の明かりが揺れた。

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