第12話 明日の約束
リタは六本の線の上で鉛筆を止めた。
遥が黙ると、冷蔵庫の音が大きくなる。
「私が、あそこで開かなければ」
遥が同じことを言う。リタは鉛筆を机へ置いた。
「わたしも、近道に入らなければ落ちなかった」
「同じじゃない。私は紬を連れてた」
「おばあさんは、わたしがひとりで来られると思ってた」
言い返してから、リタは膝の布を掴んだ。誰のほうが悪いか競うつもりではなかった。なのに、どちらも言えば自分の大事な人の顔が出てきてしまう。
遥は顔を伏せた。
「……ごめん」
「わたしに謝らないで」
リタは短く息を吐いた。祖母に会えば、遅れたことを謝る。それまでの謝り方を、遥から習いたくはなかった。
叔母が水を飲み、机の上のノートを二人の間へ寄せた。何も言わなかった。
「昨日、手が震えてたのに、リンゴの数を聞いたね」
リタが言った。
「あるって言ったら、顔、下ろした」
「覚えてない」
「わたし、覚えてる」
五つは腕の中にあった。でも、誰かに数を聞かれるまで、自分がここで何を守ればいいかばかり考えていた。遥は手を壁につけたまま、リタを見送った。
「そういう手だったから、取ったの」
遥は左手を見る。リタは自分の指も並べた。掌に巻かれたガーゼが白い。
「もう一度開いてって頼んだら、開ける?」
「行く場所が、わかれば」
「森は?」
遥の指が止まった。
「……まだ、知らない」
わかっている返事だった。もう一度聞けば違っていればいいと思った自分が、嫌だった。
「じゃあ、紬のいる所も、開かないんだね」
遥は頷いた。そこで初めて、右手の話を急がずにできた。
リタは巻いた糸を机へ置いた。
「これ、取っておく。まだ使うから」
遥が輪のそばへ車止めを二本描いた。リタはその間へ短い線を引いた。
「わたしは、帰りたい」
言うと、遥の鉛筆が止まった。
「うん」
「紬が見つかるまで帰らないって、今は言えない」
目をそらさずに言った。そらすと、いい人のふりをしてしまう。
遥は紙の車止めを見た。
「……わかってる」
わかっている顔ではなかった。
「でも、明日は一緒に探す」
リタはノートを引き寄せた。森の道の隣には、鍵の持ち主の名前を書く場所が空いている。
「ここ、紬も書いて」
「いいの?」
「明日の話。明日できることを、わたしもやる」
遥は妹の名を、読みやすい字で書いた。つむぎ。リタはその下へ自分の名を写す。二本目が長くなり、ひとつ上の字へ届いてしまった。
「消す?」
「そのまま」
遥が言った。声がようやく、少し出た。
叔母が二人のノートを閉じた。
「明日は右手を休ませる。今夜は寝る。探すのは、そのあと」
「壁がなくなるかも」
遥が言うと、叔母は閉じたノートへ掌を載せた。
「あなたが倒れたら、次の壁が見つかっても開けられない」
遥は何も言わず、椅子の背にもたれた。リタも糸を巻き直した。これだけは眠っている間に布へ戻ってくれない。
部屋へ戻る前、リタは空いた席の前で止まった。朝、ここへ座ろうとして怒られた。紬が帰ってきても、この家にいる自分を想像するのは勝手だろうか。
「遥」
「何?」
聞こうとしてやめた。今、椅子のことまで言うのは、また何かを奪う気がした。
「……明日の朝、呼んでね」
遥はノートの端を持ち、少し考えてから頷いた。
「一緒に食べよう」
リタは頷き、階段へ向かった。
途中で振り返ると、遥はまだ机の前にいた。ノートを開きかけ、叔母に取り上げられている。
「歯磨き」
「わかってる」
「返事だけは早いのよね」
リタは笑いそうになり、顔を戻した。
借りた部屋の戸を開ける。床の端へ空の籠を置いた。五つのリンゴは、下の冷たい箱に入っている。祖母の家には届いていない。
布団へ座る前に、明日着る服を畳み直した。ここにいる朝を待つのは、初めてだった。




