第13話 椅子をひとつ
日曜の朝、遥は物置から折り畳み椅子を出した。
脚を広げると、途中で止まった。留め具に埃が詰まっている。右手で押すにはまだ重く、左手へ替える。
背後から叔母が覗いた。
「無理して運ばなくていいよ」
「食卓で使う。拭いたら、大丈夫だと思う」
叔母は椅子ではなく、遥の右手を見た。昨夜ほど震えてはいない。痛みもない。ただ、固いものを強く押すと腕が重かった。
「今日は力を使わないで、休ませよう」
叔母は濡らした布を渡してくれた。
食卓の椅子は四つある。昨夜もリタは、空いていた来客用の椅子に座った。けれどそこは、通路へ半分はみ出す位置だった。誰かが台所へ行くたび、彼女は椅子を引いて避けていた。
紬の席からいちばん遠い場所を、自分で選んでいた。
今日はリタのために場所を決めたい。
この折り畳み椅子で座れるか考え、遥は留め具をもう一度見た。長く座るには、背もたれが低すぎる。
「部屋の椅子、持ってくる」
遥が言うと、叔母は途中まで拭いた椅子を受け取った。
*
リタが階段を下りてきたとき、遥は新しい席へ皿を置いていた。
「おはよう」
リタは挨拶してから、椅子を数える。
「増えた?」
「私の部屋にあったのを持ってきた」
窓のそばは紬の席。その斜め向かいへ、リタの皿を置いた。庭も見えるし、立ったときに叔母の席とぶつからない。
「ここ、使って」
「紬が帰ってきても?」
遥は窓の方を見た。
「帰ってきたら、あっち。リタはここ」
五つの椅子が食卓を囲む。
「五つ、ある」
リタがもう一度数えた。
「紬が帰ったら、余らない?」
「一つ余る。それでいい」
叔母の皿を運びながら答えた。
リタは取っ手を持たず、空の籠を床へ置いた。
椅子を引き、背もたれにずきんを引っかけないように座る。
「ありがとう」
遥はうなずき、パンを運んだ。
リタが焼いた端を見た。
「取っておくの?」
「私は最初に食べる」
遥が答えると、リタは笑って同じ端をかじった。
リタの皿には、真ん中の白いパンだけが残った。
「そこ、もらっていい?」
「まだ食べる」
返事が早く、遥は笑った。
*
朝食のあと、叔母が五つのリンゴを出した。
傷のある一つは、別の皿に載っている。昨日と同じように見えたが、指で持つと一部が柔らかくなっていた。
叔母は勝手に切らなかった。リタに皿ごと渡す。
「今日、どうするか考えよう」
リタは膝に皿を置いた。
遥は買い足す話をしなかった。八百屋で見たきれいなリンゴも、祖母と採ったものの代わりにはならない。
「切るところ、見ててもいい?」
リタが言った。叔母はうなずいて、まな板を出した。
傷のそばだけ、少し切る。中にも茶色い部分があった。それ以外は薄い黄色だった。
リタは切り落としたところと、残ったところを交互に見た。
「おばあさんなら、残りを煮る」
「今日はここで煮て、みんなで食べる?」
「持っていくのは、四つになる」
「そうなるね」
叔母は答えた。
リタはしばらく考えてから、四つを数え直した。
「無くしたんじゃなくて、三人で食べたって話せばいい」
遥が顔を上げた。
「助けてもらった家で、傷む前に食べた。おばあさんにも、どうやって煮たか言う」
リタは皿を机へ戻した。
「一つ、今日食べたい」
叔母が鍋を用意する。リタはそばで見るだけにした。背中は前より楽だが、屈むとまだ痛むらしい。手のひらの傷は乾いていた。
遥は残り四つを冷蔵庫へ戻した。
付箋の『リタ』の下へ、小さく四と書いた。減ったところばかり目につくので、扉を閉める前に、残っている四つを見た。
煮始めたリンゴの匂いが台所に広がる。
叔母は甘くする前に、小さな匙でリタへ味を見せた。
「こっちの砂糖、どのくらい?」
「まず少し。足りなかったら足す」
リタは口に入れ、ゆっくり考えた。森の味を探しているようだった。
家の電話が鳴った。
叔母が出る。遥は鍋の火を見ていたが、店の名前が聞こえて振り向いた。
昨日の店主だった。
「台車、戻せたんだって」
電話を終えた叔母が言う。
「今朝は普通に通れたそう。昨夜の間に何が変わったかは、分からない」
「誰かが、直したの?」
リタが鍋から顔を上げた。
「店の人も知らないって。夜は入れなかったのに、朝、箱を引いたらこっちへ来たそうよ」
遥は昨日の台車を思い出した。見えるだけで届かなかった箱が、一晩で戻っている。
「持ってた誰かが、離したんじゃない?」
リタは匙を鍋の上で止めた。祖母が糸を預けるとき、手を離したみたいに。
「柱の短い糸も、取っておいてくれたって。後で私が受け取りに行く」
リタが安心したように肩を下ろした。
叔母は昨日のことと、紬の新しい話を伝えるための時間も取ると言った。遥は一緒に行くと答えた。
リンゴは三つの小皿に分けられた。皮の赤いところが鍋の縁に残る。リタは祖母へ話すから、と手順をノートに描いていた。
その隣に遥が車止めを二本描いた。昨日は届かなかった道が、今朝は戻った。歯を離せば、戻るのだろうか。
「糸じゃなくて、道を噛んだんだね」
リタが言った。
遥は鉛筆を握り直した。一年前、見えなくなったのは、妹だけだったのだろうか。




