第14話 その声を追わない
紙の上の川は、青い線一本だった。
リタは指を置き、向こう岸まで渡ったつもりで動かした。遥が、その場所には橋がないよ、と言う。
「地図には、通れるところも描かないと」
「描いてる。でも、全部の線が道じゃない」
川に線を足して、橋を教えてもらう。森の地図なら川は水の形で描く。こちらの地図は道も川も線なので、どちらへ足を置けるのか迷った。
昼前の食卓に、遥が印刷した街の地図が広がっている。
リタの新しい席は、その紙を置いても邪魔にならなかった。
「まず、家」
遥が丸をつける。
「私が落ちたところ」
リタも鉛筆を握った。道順は覚えていたが、紙の上では遠く見える。遥に通りを教わり、一つずつ角を曲がってから印をつけた。
商店街。配達員が出られなくなった角。惣菜屋の人が声を聞いた通り。紬が消えた壁。
四つの印は、同じ場所にはならなかった。
「一つの穴じゃないんだね」
「そう。離れてる」
リタは森から来る前の地面を思い出した。自分が落ちた穴の大きさより、紙に描かれた距離の方がずっと大きい。
四つを結んでみた。線は家の上を横切り、川で途切れた。道にしては、曲がり方がひどい。
「これ、誰も歩けない」
リタが言うと、遥は紙の端を持ち上げた。
「同じ町なのに、場所が違う」
「森でも、木の上と根の下は違う」
リタは川に描いた橋を見た。上を通れば足は濡れない。川の線へ乗ったら流される。ひとつの紙へ重ねてしまうと、足を置く場所がなくなる。
遥は地図の下にもう一枚、白い紙を敷いた。まだ何も書けなかった。
リタは余った紙へ小さな穴を描き、その中へ歯を足した。六つを並べると、端の一つが長くなった。
「向こうは、全部つながってるのかな」
遥は地図を見る。
「向こうって、消えたあと?」
「うん。私は、ここへ来た。惣菜屋の人は川のそば。紬はまだ分からない。入口が違っても、同じ中を通ったかもしれない」
「それなら、何で同じところに出ないんだろう」
リタには答えられなかった。
遥はノートへその問いを書いた。地図の印を増やすのとは別のページだった。
下の紙へインクが少し透けている。リタは窓へ重ねて持ち上げた。遥が描いた道の下に、別の道があっても、この地図には載らないのだろうか。
*
午後、三人で外へ出た。
交番では、遥が一年前の壁の話をした。途中で右手を握り、机から膝へ下ろす。リタは言葉を足す代わりに、その手のそばへ籠を置いた。
叔母も同じ席にいた。何度も探した場所を、今度は壁の名前で言い直した。鍵入れの持ち主はまだ見つかっていないと聞き、遥は受付の紙をしまった。
帰り際、リタが鍵入れの白い縫い目を描いた紙を見せると、制服の人は写真に残してくれた。長い一針。その人の手も、覚えておこうと思った。
外へ出て、遥が長く息を吐いた。
「言えた」
「うん」
リタはその隣を歩いた。叔母は少し先で待ってくれた。
次は商店だった。
店主は短い赤い糸を小さな袋へ入れて保管していた。叔母が受け取り、リタへ渡す。
糸の端には、白い柱の粉がついている。
「これ、私の」
「もう道には戻らない?」
遥が聞いた。
「結べる。でも、切れた分を結ぶだけ。なくなった布が戻るわけじゃない」
リタは袋をしまった。
台車が置かれていた角へは、店主も一緒に来てくれた。今日の通りは普通に続いている。朝は店主と配達の会社の人が歩いて、荷物を戻したという。
白い柱の前に立つと、昨日糸が曲がった角が見えた。
リタはそこへ向かわず、紙に描いた印を確かめた。
「ここで合ってる」
遥が写真を撮り、店主へ昨夜のことを尋ねる。
道を見張っていた人はいた。すぐに治ったのではなく、暗くなってからも同じ角へ戻った。いつ普通に通れるようになったかは、朝まで分からなかった。
「ずっと見ていたわけじゃないからね」
店主は言った。
リタは白い柱へ手を添えた。糸を巻いた跡だけが、細く赤い。昨日そこへ結んだとき、地面のどこにも出口はなかった。今は配達の台車が普通に横を通る。
店へ戻る途中、叔母が顔を上げた。
「ほかにも、こういう話を聞いたことはあります?」
「道が変わったって話なら、駅の下で聞くよ。商店街の外の店でも。迷っただけだと思ってたけど」
遥が地図を開いた。
店主は駅の印のそばへ指を置いた。
「昔の地下の入口、この辺り。今使ってる通路とは違うんだ」
リタは紙の上を見つめた。
地図の下から、白い紙を抜いた。
「上じゃなくて、下」
遥が駅の四角をそこへ写した。リタが描いた線と重ねると、途切れた川の上を、空白が横切った。
まだ知らない道がある。そこへ紬が出ていたら、地上をいくら歩いても見つからない。
*
その声は、叔母が店の人に挨拶をしている間に聞こえた。
「お姉ちゃん」
遥は足を止めた。
食卓で口にしたばかりの名前が、喉まで上がってくる。振り返りかけた肩を、リタの手が押さえた。
「今、聞いた?」
その問いで、遥は止まれた。
午後の商店街。叔母は五歩ほど先にいる。買い物客も店の人も見える。声だけが、左の細い道からした。
「聞いた」
「誰の声?」
遥は息を吸った。
「……紬」
名前が出てしまった。リタの指が袖を掴む。声のした方へ、足だけがまだ行こうとしていた。
リタは腕を引かなかった。遥の袖を握り、同じ場所に立っている。
「追わない」
返事が少し強くなった。
リタの指が止まる。遥は彼女の手を見た。昨日こすったところに、薄いかさぶたがある。
「ごめん。分かってるけど、動きそうになった」
叔母を呼ぶと、すぐに戻ってきた。
遥は道へ背を向けたまま、妹に似た声を聞いたと話した。叔母は通路を見たが、近づかなかった。
「リタも聞いたの?」
「声がしたのは聞いた。私は、紬の声を知らない」
リタははっきり答えた。
そのとき、もう一度呼ばれた。
「お姉ちゃん、こっち」
今度は叔母にも届いた。彼女の顔が変わるのを、遥は見た。
リタの手が袖にあることを、遥は確かめた。
「おばさんも、追わないで」
叔母は唇を閉じ、うなずいた。
「戻ろう。まず店へ」
叔母が一歩こちらへ戻った。買い物袋の取っ手を握り直している。
袋の底が震えていた。遥が手を伸ばすと、叔母は首を振り、リタの方へ空いた手を出した。
「三人で戻る」
いつも出かける時に聞く言い方だった。リタがその手を取り、遥も隣へ並ぶ。
三人で大きな通りの側へ動く。店主は叔母の説明を聞き、店の入口を空けてくれた。
そこへ着くまで、声はしなかった。
店の明かりへ入っても、妹の声が耳に残った。帰りたいなら、あっちへ行けばいい。そう言われた気がしていた。
リタの掴んだ袖に、小さな皺ができていた。
*
叔母が連絡をしている間、遥は店先の椅子に座った。
店主が入口に立ち、叔母は電話を掛けた。通路の奥へは誰も入らない。遥だけが、その誰も、に自分を入れたくなかった。
リタは遥の隣へ座った。
「袖、つかんでごめん」
「止めてくれてよかった」
遥は言った。そう思っているのに、通路から目を離せない。
昨日、配達員もこうだったのだろうか。いるはずのない娘が呼んだ。妻が助けを求めた。おかしいと思う前に、確かめなくてはいけないと思った。
紬なら本当にいるかもしれない。
その考えが消えなかった。
「顔を見たら、分かるかな」
声にしてから、遥は昨日の男を思い出した。リタは祖母の声を聞いたのに、そこにいたのは知らない男だった。
「本物だったら、置いてきたことになる」
言うと、リタの目が窓へ動いた。森で声がしたときのことを考えているのだろう。
「わたしも、おばあさんを置いて逃げたかと思った」
「違うって、わかった?」
「顔は見てない。今でも、そうだったら嫌だよ」
遥は袖の皺を伸ばした。リタは止めながら、同じことを怖がっていた。
「紬だったら、何て呼ぶ?」
「お姉ちゃん、そこじゃない、って」
言いかけて、口を閉じた。あの日は違った。お姉ちゃん、としか言えなくなるまで、こちらが引いてしまった。
リタが籠を膝へ載せる。
「次も、袖を掴む。嫌なら、嫌って言って」
「嫌でも、掴んで」
そんな頼み方をしてから、遥はやっとリタの顔を見た。
叔母が戻り、今日の外出はここで終わりにすると言った。遥はうなずいた。地下の入口は別の日に確かめる。今日は行くと決めて出てきたわけでもなかった。
店主に礼を言い、三人で帰路につく。
細い道の前は通らず、大通りへ出た。
家でノートを開くと、鉛筆が紙を突き破った。紬の名前を、その声の位置へ書きそうになったからだ。
リタは破れた紙を裏から押さえた。
「地下の入口は、ここ?」
地図を向ける。駅の印までは、二本の道がある。一つは歩いたことがない。
「こっちから、声がした」
遥は知らない方へ線を引いた。
止めてもらった袖を、もう片方の手で握っていた。次に妹の声がしたら、今の返事を覚えていられるだろうか。




