第15話 道を売る男
月曜は学校へ行った。
前の席の子に消しゴムを借りたら、昨日のメッセージに返事がなかったと言われた。
「買い物に行ってた」
「朝から?」
「うん」
貸してくれた子はそれ以上聞かず、小テストの範囲を教えてくれた。遥は教科書に線を引いた。右手でも字は書けた。
休み時間、叔母から写真が届いた。リタが庭で紙を広げている。端に大きく『遥』と書いてあった。
『帰ってから、相談したいんだって』
夕方、リタは鉢の棚の奥にしゃがんでいた。
「ここ、糸で伝わる? 今日、わたしが片づけたの」
遥が触れると、糸の先は棚の下へ向いていた。その奥に人の立てる場所ができたことは分かる。けれど、どの高さへ足を下ろすのか分からなかった。
「商店街はできたのに」
「あそこは、私が前に立ってたから」
「ここも、すぐそこだよ」
リタは奥の小石を拾い、遥の靴のそばへ置いた。
遥はその石を踏んでみた。踵が傾いた。
何も言わないでいると、リタが石を戻した。棚の向こうで、土に当たる音がした。
夕飯まで、二人で残りの鉢を運んだ。リタは一番重いものを先に持ち上げ、下に虫がいるのを見て、そのまま遥へ渡した。
「平気じゃないの。森にいたのに」
「森でも、これは嫌」
鉢の陰に空いた場所へ、遥は初めて両足を入れた。リタはもうこちらを見ていなかった。
*
次の土曜、リタは籠を置いて家を出た。
今日持っていくのは、ノートと水と、出してある糸だった。背中の痛みはほとんどなく、手のひらの傷も薄くなっていた。遥の右手も、普段どおりに鞄を持てる。
リンゴは四つ、冷蔵庫に残っている。
叔母と三人で駅へ向かう。
遥は学校のある日、家へ戻ってから少しずつ地図へ書き足していた。店主が教えてくれた昔の入口は、今使う地下通路の入口から離れている。間をつなぐ地上の道を、今日は先に歩く。
「戻るのは、こっち」
駅前の広場で、遥が時計のついた柱を示した。
遥は時計の裏で足を止めた。背中が柱につくと、バスの音が小さくなった。
「帰りは、ここで待ち合わせね」
叔母が言った。リタは時計の針を見上げた。
*
古い入口は、建物の間にあった。
階段の上に屋根がかかり、壁の文字は一部剥がれている。新しい入口のように、明るい店の名前は並んでいなかった。
閉じた鉄の格子が、階段の手前にあった。
リタはそこで足を止める。
「通れないね」
「うん。ここからは入らない」
遥が答え、叔母も掲示を確かめた。
リタは格子へ近づかず、隙間から見えるところだけを見た。階段は下へ続き、途中で向きを変えている。その先は暗くて分からない。
人の声はしなかった。
階段の踊り場に、片方だけ靴のような物があった。リタが顔を近づけると、叔母が隣へ来た。古い手袋だった。
遥は掲示を撮り、近くの店へ閉鎖の理由を尋ねた。店の人は格子を見て、小さく首を振る。
「ここはずっと閉まってるよ」
店の人は格子を指した。
「地下には、新しい方から行ける店も残ってるけど。この階段は使ってない」
遥が顔を上げた。
「道に迷った人の話って、どこで聞きました?」
「下の修理屋で。靴の修理をしてるところ。向こうの入口からなら行ける」
地図へ店の位置を教えてもらう。
地下の線は地上の道と重なっていて、リタには分かりにくかった。遥が別の紙へ描き直し、入れる入口と閉まった入口を分けた。
そこを指でなぞってから、リタは格子を振り返った。
「下でつながってるなら、ここに来た人も、向こうから帰れる?」
「普通なら」
遥は答えた。
その言葉を確かめるために、三人は広場へ戻った。
*
使われている地下通路は、思っていたより暖かかった。
天井に丸い明かりが並び、飲み物の機械が光っている。通路の端には店があり、人が袋を持って歩いていた。
リタは階段を下りた数を覚えようとして、途中でやめた。段だけを数えて、曲がった向きを忘れたら困る。
遥は案内図を見せた。
「今、ここ。帰る階段は、今下りたところ」
「二つ先で右」
「そう」
地下の案内図には出口の印がいくつもある。リタは自分が来た階段の印だけ、指で触れた。地図を信じて別の出口へ行ったら、本当に同じ広場へ出られるのだろうか。
靴の修理屋は、小さな開いた店だった。
棚には、袋に入った靴が並んでいた。古い日付の札が何枚もある。
「取りに来ないんですか」
遥が一足を見て聞くと、店主は棚の奥へ押し込んだ。
「引っ越したのかもしれないしね」
その一足だけ、底が直ったまま埃をかぶっていた。道が変わったことについて尋ねると、作業の手が止まる。
「何度か、帰る階段がないって人が来たね」
遥がノートを開いた。
「この通路でですか」
「ここに来たときは、ちゃんとあるんだよ。でも、自分が入ったのは別の階段だって。奥へ戻るって言うから、止めたことがある」
リタは天井の明かりを見た。帰る階段が見えていても、自分が来た道と違うなら戻りたくなる気持ちは分かる。
森へ戻る壁を、何度も探した。
「その人、帰れた?」
「この入口から出た人はね」
店の人は答えた。
「ただ、帰り道を取り戻したいなら奥で相談できるって話も聞く。私は行ってない」
叔母が店の奥ではなく、通路の先を見た。
「誰に相談するんです?」
「案内人みたいな男だって。道を売るんだとさ」
リタはずきんの裾を押さえた。
売るという言葉は、八百屋で覚えた。にんじんを買ったら、お金が減って籠に品物が増えた。
道を買ったら、何が手元へ来るのだろう。
遥も同じところで鉛筆を止めていた。
「会った人は、いますか」
遥が尋ねた。
店の人は少し考え、棚の横に貼られた紙を見た。
「夕方に来る人がいる。詳しくは、その人から聞いた方がいい」
店主が女性へ連絡する間、リタは棚の靴を見ていた。足はどこかにあるのに、靴はここで待っている。
「道を売るって、靴を売るのと同じ?」
尋ねると、店主は作業台の刃物を置いた。
「靴は、履いたら減るだろう。道は誰かが歩いても減らない」
リタは短くなった裾を握った。減らないはずの道を、誰が売り物にしているのだろう。




