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第16話 箱の中の白い石

夕方、紙袋を抱えた女の人が靴修理屋へやってきた。


「待たせちゃったね」


 椅子に座り、足元へ袋を置いた。去年の秋、閉じた階段の奥から母に呼ばれたのだという。


「母は施設にいるの。こんな所を歩ける人じゃないから、返事はしなかったけど」


 翌日には階段が戻っていた。それまでどこにあったのか、駅の人に聞いても話が合わなかった。


 女の人が帰ったあと、店主は靴底の見本を片づけた。


「角に案内板があるだろう。あれより先は、今は行かない方がいい」


 叔母は店に残って話を聞くことにした。遥とリタは、角が見える所まで出た。店からほんの数歩だった。


 案内板の手前に男がいる。


 灰色の上着に黒い手袋。こちらを待っていたように、手の中の箱を開けた。


「帰る道をお探しですか」


 箱には薄い四角が重なっていた。写真かと思ったが、一枚の中で茶色い靴が動いた。階段を上っている。片方のつま先に白い傷があった。


「それ、何ですか」


「お困りの方へ、道をお分けしています」


 靴は一段上がった。次の段へ足を置き、また同じ場所へ戻った。


 リタが遥の手を取った。


 振り返ると、叔母は店の前にいる。白いタイルの上で、こちらへ来るなと手を振っていた。遥たちの靴の下は灰色だった。こんな広い継ぎ目を、今、またいだだろうか。


「戻ろう」


 二歩戻っても、白いタイルが近づかなかった。


 遥は叔母に電話をかけた。画面の名前に、すぐ通話の数字が重なる。


『見えてる。店の人が駅に知らせに行った。そこから動かないで』


「うん」


 耳では近い。その人が、目の前ではどんどん小さくなっていく。


 遥は壁へ右手を当てた。駅の時計の下なら、何度も友達を待った。柱を背にして、階段を下りてくる靴を眺めた場所だ。


 四角の中に時計が出た。


 けれど床がない。


 柱の根元を探すうち、遥自身の右のかかとが浮いた。左だけで立っている気がして膝を曲げると、リタに肩を支えられた。


「足、下りてるよ」


 遥は手を離した。両方の靴は、ちゃんと灰色の床を踏んでいた。


「お急ぎなら、お手伝いできます」


 男が箱から一枚を抜いた。花鉢のある小さな庭だった。


「お代は、そちらの家への道で結構です」


「家の道?」


「いつもお使いのものを一つ。代わりの道は、後で探せばよろしい」


 庭にはサンダルがあった。片方だけ横を向いている。履いた人は家の中にいるのか、それとも、こちらからは見えないどこかで探し続けているのか。


「持ち主はどうしたんですか」


「その方も、別の道をお求めでした」


 庭の隅が白く薄れた。男はそこを指で押さえ、何事もなかったように箱へ戻した。


 遥は自分の家の庭を思い出した。叔母が鉢を寄せた所には丸い跡が残る。紬がいた頃は、その隙間へいつもボールが入った。


「うちのは、渡せません」


「では、赤い方は?」


     *


 男の視線が、リタの肩から裾まで下りた。


 布を買う時の目だった。祖母と行った市でも、店の人はまず長さを見た。でも、この男は裂けた端から目を離さない。


「ほどいた分も、まとめて頂きましょう」


「帰れるの?」


「ご覧ください」


 箱から白い石が出てきた。


 石そのものではない。薄い一枚の中に、川と石があった。上流側が欠けている。リタはそこで膝を擦ったことがある。


 濡れた土の匂いはしなかった。


 リタは胸に上がった息を、ゆっくり戻した。


「見せるって言われると、近づきたくなるね」


 遥が小声で言った。


「分かってる。だから、手、持ってて」


 石の向こうは坂になっていた。坂の上には屋根が見えるはずなのに、男の指が邪魔で見えない。


「これを渡したら、あの靴の人も出して」


「お知り合いですか」


「知らない人」


 茶色い靴がまた同じ段へ戻った。リタはあれが自分の足だったらと思った。一日くらいなら走り続けるかもしれない。そのあとは、どの段で座るだろう。


「お二人ともお出ししましょう。そちらのお嬢さんには、ご家族の所へ戻っていただけばいい」


 遥の手が強くなった。


「リタは?」


「森へ。行き先が違うのですから」


 リタは石を見た。帰る場所が違う。言われるまでもないことだった。


「わたしが決める」


 男はどうぞ、と箱を少し傾けた。


 石の端がこちらへ寄る。裸足でも渡れる高さだ。リタは靴の中で指を曲げた。足が勝手に、その感触を探していた。


「リタ」


 声がした。


 祖母の声だった。


 考えていたことが全部ほどけて、返事が出そうになった。遥の指が手の甲へ食い込まなければ、そのまま一歩踏み出していた。


「おばあさん、脚は?」


「平気だよ。早くおいで」


 リタは唇を閉じた。


 祖母なら、まず靴を見る。泥だらけなら裏へ回れと言うし、濡れていれば替えの靴下を探し始める。急いでいる時ほど、そうだ。


 それでも声は同じだった。


「待っているんだよ」


 石へ行きたい。声の間違いを数えても、行きたい気持ちは消えなかった。


「帰りたいよ」


 リタは言った。


 遥がこちらを向いたが、今は顔を見られなかった。


「でも、これは渡さない」


 肩の布を寄せると、男の口元がずれた。笑ったまま、頬の片側だけが下がる。なでつけた髪が額へ落ちた。


 日本へ来た日に、籠へ手を伸ばした男の顔になった。


 リタはずきんの端を握った。


 男は箱をしまった。中ではまだ、誰かの靴が歩いていた。

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