第17話 長い鈴のひも
遥が靴修理屋へ開いた出口に、歯が入った。
青いタオルが遠ざかり、四角の上辺がたわむ。六つの跡のうち、端だけが深い。
紬の手が離れた時と同じだった。
遥は右手を戻した。リタの指を痛く握っていたことには、そのあとで気づいた。
「出口を噛んだ」
男の鼻が前へ伸びた。上着の襟には人の首が収まっていたのに、今は灰色の毛が擦れている。黒い手袋から爪が出て、案内板を引っかいた。
「狼」
リタが言った。歯の間に赤い繊維があった。
「その口で、妹の道も噛んだんだ」
狼は箱を入れた懐を叩いた。口を開くと、喉の奥に廊下が見える。白い袖が動いたように見えた。
「帰したい人は、どちらにもいるでしょう」
遥は袖を追った。狼が顎を閉じると見えなくなった。
もう一度、と言いそうになった時、リタが手を引いた。
「今は出よう」
リタが足元へ糸を送った。二人の通ってきた灰色の継ぎ目に赤が落ち、その継ぎ目ごと、床が横へ滑った。叔母のいる白いタイルへ続くはずの一本が、案内板の裏へ潜っていく。
「あそこ?」
「道が動いてる。糸は切れてない」
電話の向こうへ告げる暇もなく、狼の腕が二人の間へ出た。遥は鞄をぶつけた。布が裂け、教科書の角で爪が止まる。
リタに引かれ、案内板の裏へ滑り込んだ。
そこには家の玄関があった。
片方のサンダルが靴箱の戸に挟まっている。来た時には踏まなかった木の床だ。けれど赤い糸は、さっきまで見えていた灰色の継ぎ目を、その向こうでまたたどっていた。
後ろで爪が鳴った。
遥は木の床を越えた。降りた先には黄色い線があり、その端を膨れた板が押し上げている。右の靴底が傾いた。思わず壁へ寄ると、肩が広告を剥がした跡に擦れた。
「お姉ちゃん」
左の戸が開いていた。
明かりと白い袖。顔を見ようとした遥を、リタが前へ引く。
「こっち」
「でも」
言った時には戸が遠くなっていた。
黄色い線の先に、低い鉄の柵があった。リタがしゃがみ、糸を結んだ。赤い線が張り、動いていた床が柵の脚でつかえた。
青いタオルを思い出す。入口の靴底の見本を避けて立った、狭い店の床。
今度はそこに自分の重さがあった。
「先に出て」
遥は壁を押した。
作業台の脚が出た。その隣で、店主がこちらを見ている。
狼の鼻が肩の後ろへ迫った。閉じれば逃げ道がなくなる。遥は押し続けた。歯が四角の縁を挟み、黄色い線が口の方へ伸びた。
リタが柵に結んだ糸を押さえる。
狼が咳をした。
遥たちの足元を通っていた廊下が一瞬、薄い紙のようにめくれた。その切れ端が黄色い線へ落ちる。中に、さっきの木の床と戸口があった。
「リタ、早く!」
「これも」
リタはその端を靴で踏んだ。狼の爪が伸びるより先に拾い、脇へ抱える。糸を柵からほどく余裕はなかった。張った一本を切ると、残った端へ狼の顔が向いた。
リタは出口へ入った。
店主が腕を取った。それでも遥の手を放さず、両足を店の床につけて振り返る。
「遥!」
遥は右手を離した。
閉じる縁が肩を擦った。リタの腕に引かれ、作業台へ鞄をぶつけた。教科書が一冊落ちる。拾おうとして膝が折れ、二人で店の床へ座り込んだ。
*
叔母は入口で止まった。遥とリタを見てから、ようやく近づいてきた。
「二人とも、ここにいるね」
電話の中でも同じ声がした。
遥が通話を切ると、急に店の音が増えた。ミシンの小さなうなり、通路の放送、リタの荒い息。
「指、見せて」
叔母に言われて、リタが手を開いた。赤い糸が指の溝へくっついている。叔母は落ちた端をつまみ、布の上へ置いてやった。
店主が作業台を空けてくれた。リタの抱えたものを載せると、薄い端だけが布へつき、木の廊下は奥へ続いたままだった。
警察の人が覗き込み、言いかけたことをやめた。
「触らない方がいいです」
遥が言った。どこまで話せば説明になるのか分からなかった。相手も困った顔をしていた。それが少しだけありがたかった。
リタは廊下の端に残った自分の糸を巻いた。柵へ置いてきた分は戻らない。持ち帰った道の縁にも歯形があり、歯と歯の間だけ、向こうの空気が冷たく漏れていた。
小さな金属音がした。
遥は顔を上げた。戸口の陰で鞄が揺れた。持ち手から銀色の鈴が下がり、長いひもが一度だけ光を横切った。
切れば引っかからないのに、と何度も言ったひもだった。




