第18話 字、どうしたの
鈴は、それきり鳴らなかった。
遥はスマホの写真を拡大した。庭で撮った紬の写真。顔を画面の外へ追いやり、鞄の持ち手ばかり見た。
片方だけ長いひもがある。
「切らなくて、よかった」
声に出すと、叔母が横から覗いた。何も言わず、口元へ指を当てた。
顔は見えていない。鞄だけかもしれない。遥は写真を閉じられなかった。
*
持ち帰った廊下は、靴の空き箱に収まっていた。
警察の人には、見えたものを何度か説明した。箱を動かすと中の戸も傾くので、結局、リタが抱いて帰った。叔母は連絡先を確かめ、何か変わったら知らせると約束した。
帰宅すると遥は玄関に座り込んだ。靴のかかとがうまく外せない。
「引っかかってる?」
「手が、動きにくいだけ」
リタは片方の靴を押さえた。遥が足を抜くと、もう片方も同じようにしてくれた。
玄関の段が、今日は高かった。いつものつもりで足を上げたのに膝が届かず、遥は一度座り直した。段は動いていない。叔母に聞かれる前に、疲れた、と言った。
夜中に三度、箱を見に起きた。
四度目にはリタがいた。机の脚へ糸を結び、箱の縁でほどけかけた輪を直していた。
「寝なかったの?」
「寝た。目が覚めた」
遥もそうだった。
向こうの戸は暗い。歯形の隙間から来る風で、机に置いた紙がかすかに動いた。
「これ、入るかな」
遥が紙を差し込むと、角だけ向こうの床へ出た。
押し込もうとして折れた。リタが受け取り、縫い目へ糸を通すように角度を変える。最後の端を放すと、白い一枚が廊下へ落ちた。
二人とも黙った。
ただの紙だった。何も書いていない。
リタが遥を見た。遥は急いで鉛筆を取った。
*
朝、最初の返事が来た。
『紙は届きます。そちらはどこですか』
遥の書いた三つの丸の裏だった。
叔母がお茶を置く。遥はカップをよけ、紙を机の真ん中へ広げた。
「この字」
「もう少し、聞こう」
叔母の声もいつもより低かった。
遥は左手で名前を書いた。道瀬遥。最後の字は、何度書いても横へ傾いた。
リタが向こうへ渡す。細い指が出て、今度はすぐに紙を取った。
返事は二行だった。
『紬。
お姉ちゃん?』
遥は鉛筆を持ったまま、動けなくなった。
名前の字は小さい。問いかけだけ、大きい。急ぐと文字の高さが揃わなくなる癖まで同じだった。
「パンの話」
リタが言った。
「どっちが好きって、喧嘩したんでしょう」
遥は新しい紙を取った。知っていることを、試すために尋ねるのが嫌だった。けれど昨日は、知らない口から紬の声がした。
『私がパンの端を取った時、私の皿から何を取った?』
返事を待つ間、叔母がお茶を入れ直してくれた。三人とも、一杯目には手をつけていなかった。
『玉ねぎ。お姉ちゃんの好きな方を取った。でもパンは好きだから最後に置いてたの。今度は取らないで』
その下に一行、足されていた。
『字、どうしたの。けがしてる?』
遥は紙を持てなかった。
机に置いたまま文字を追う。読み終えたはずなのに、左端へ戻ってしまう。涙が落ちそうになり、顔だけ横へ向けた。
「紬だ」
叔母の腕が背中へ回った。タオルを渡されても、どう使うものだったか一瞬分からなかった。
リタは箱を押さえていた。遥が椅子を動かした時、机の下の糸を引かないように、片足をそっとよけた。
「返事、書く?」
遥は頷いた。
謝りたかった。手を離したこと。迎えに行けなかったこと。一年もかかったこと。
書き始めたのは、違う文だった。
『今、食べられてる? 痛いところはある?』
*
紬は食べていた。大きな怪我はなく、ほかにも人がいると書いていた。
遥は一行読むたびに叔母を見た。叔母も、そこをもう一度読んだ。
最後の文は、筆圧が強かった。
『今、扉を開けないで。出口だと思ったところが、別の廊下になるから。来る前に、道を教えるから』
遥の右手が紙の下へ入った。
「開けないでって」
リタは同じ所を読んでいた。
「分かってる」
リタは何も言い返さなかった。
紬が道を教える。まだ靴の左右を間違えた妹が、こちらの来方を心配している。
遥は右手を下ろした。
『分かった。今は開けない』
書いて、少し迷ってから足した。
『また話したい』
リタが紙を渡した。
返事は来なかった。十分ほどして、別の字の紙が出てきた。
『先に食べさせています。佐伯』
叔母が小さく笑った。
「うちも、そうしよう」
食卓の皿は三枚だった。遥は箸を持ったが、箱が見える方へ椅子を少しずらした。
リタは半分だけ食べた卵を皿の端へ寄せていた。
「冷めるよ」
「待ってるんじゃない。最後に食べるの」
遥は自分の皿へ戻った。今朝は人の分に手を出さなかった。




