第19話 七人の台所
まことはスプーンを持ったまま戸口へ来た。
「帰れる?」
紬は姉の紙を鞄にしまった。
「帰れるようにする。今すぐじゃないけど」
「みんな、それ言う」
スプーンが戸の端を擦った。塗料の剥げた所が、また少し広くなる。
「私も、今がいい」
「じゃあ、そう書いてよ」
紬はしゃがんだ。まことの髪に豆の皮がついていた。取ろうとすると、頭をよけられた。
「ご飯を食べたら書く。名前も入れる」
「僕の?」
「うん」
まことは台所へ戻った。紬もその後についていった。
机は長さの違うものを二つ並べている。椀が足りず、まことだけ白い保存容器だった。文句を言わないのは、好きなだけ汁を入れてもらえると思っているからだ。
佐伯さんが鍋を寄せた。今日の豆は皮が固い。にんじんは昨日見つけた店の棚にあり、傷んだ所を切ると少ししか残らなかった。
「姉から返事が来ました」
紬が言うと、飯田さんは椀へ伸ばしていた手を止めた。
「そりゃ、よかった」
笑ってから、ズボンのポケットを押さえる。鍵入れをなくして以来の癖だった。
「娘にも、一言知らせたいな。縫い目が曲がってるなんて、言わなきゃよかった」
「捨てずに使ってたって、書きます」
「ああ。頼む」
飯田さんの裸足は、まだ腫れていた。隣の女性が椅子の下へ布を丸めて置く。
空いた席が二つある。
食料を探しに出た二人が、戻っていなかった。
*
店の赤い棚は、昨日とは逆側にあった。
紬は家からついてきてくれた女性に、戸が見える所で待っていてもらった。棚の下の空き缶は三つ。真ん中だけラベルが残っている。
棚を回ると、青い上着の人がいた。袋を抱えて座っている。その奥では、眼鏡の人が壁に背をつけていた。
「家、こっちです」
紬が言うと、二人とも立ち上がった。
「水の音がしたから、そっちへ行きかけた」
眼鏡の人が指した先には、暗い階段があった。紬もその音を聞いたことがある。蛇口には、まだ一度も着いていない。
家に戻ると、小さい鍋に二人分の汁が残されていた。
紬は図を描き直した。古い線は消さず、新しい紙に今日の曲がり角を描く。昨日の道を消してしまうと、戻らなかった人をどこまで捜したのかも分からなくなる。
「あなたばっかり書かないの」
佐伯さんが鉛筆を取った。
「お姉さんに、返すんでしょう」
袋に入っていた缶は四つだった。飯田さんが数え、青い上着の人が棚の位置を指す。紬は隣で、姉へ送る紙を開いた。
『家には七人います。道の位置は変わります。柱の傷や、結んだ布は残ります』
描いた図の端に、古い戸の印を足した。輪の下から線が二本伸びている。取っ手に残る赤い結び目は、紬のつけた目印ではなかった。
誰が結んだのか、ここにいる人は知らなかった。
赤い糸を持つリタという子なら、知っているだろうか。
*
紙を渡して戻ると、まことが紬の椀を守っていた。
「豆、食べてないよ」
「ありがとう」
姉が見つかった朝にも、豆の皮は固かった。紬は一つ噛み、もう一つを飲み込もうとして咳をした。
まことが笑った。
戸口から来る風が冷たい。紬は席を立ちかけたが、佐伯さんに肩を押さえられた。
「見てくるから、食べなさい」
窓の代わりになっている歯形の隙間は、まだ開いていた。外側の誰かが置いた箱の縁が、ときどき薄く見える。
姉は、そのすぐ向こうで食べているのだろうか。
紬は椀を持ち上げた。佐伯さんが戸を少し押すと、冷たい風が止まった。




