第20話 境の戸
戸の印を見たとたん、リタは鉛筆を取った。
「これ、知ってる」
紬の図の隣へ、同じ輪を描く。下は少し平らだった気がする。線の長さを直しているうち、祖母の家の戸の匂いまでしてきた。雨が続くと下の方だけ黒く濡れ、拭いた布に木くずがついた。
「おばあさんの家にあるの」
「何の印?」
「家のだと思ってた」
そう答えてから、戸の内側にもあったことを思い出した。
こちらから帰る人にも見えるようにね。
祖母はそう言った。リタは森で遊んだ人のことだと思っていた。
返事を待つ間、リタはずきんを膝へ広げた。
初めてもらった時には、座るたびに裾を踏んだ。立とうとすると首が後ろへ引かれ、祖母に笑われた。
長いから切ろうよ、と言ったリタに、祖母は糸を一本ほどいて見せた。
『今日はどこを歩いた?』
川を渡って、白い石から坂を上がった。
糸は戸へ続いた。二人で外へ出て、石まで下りた。帰りには祖母が糸を巻いた。走って戻りたかったリタは、その遅さに何度も足踏みした。
結び方を教わったのも、その日だった。三度目には川から友達に呼ばれ、もう行っていい、と聞いた。
祖母の手の甲に傷があった。
どうしてついた傷か、尋ねなかった。
「帰ったら、聞く」
リタが言うと、遥は顔を上げた。
「何を?」
「たくさん」
*
紬から届いた図には、戸の裏側も描かれていた。
同じ印と、赤い結び目。端を輪の内側へ折り込む癖は、祖母のものだった。畑の袋を縛る時にも、そうしていた。
『戸の下から、水の音がします。昨日は聞こえませんでした』
紙を読み終えた時、箱の中の廊下が軋んだ。
リタの足に覚えがある、あの木の床が狭くなる。糸を少し緩めると、端の歯形が引っかからずに滑った。奥の戸が遠ざかり、その隙間へ緑が見えた。
草だった。濡れた土の匂いが来た。
「……そこに、いるのかい」
リタは糸を握った。
祖母の声がした。昨日も聞いた声だった。
「誰を探してるの?」
「赤い糸が切れた子を」
戸の向こうで水が鳴った。
リタは膝の布を押さえた。
「この前、籠に何を入れた?」
遥は何も聞かなかった。叔母も、持っていたカップを置いただけだった。
「豆だよ。乾いた方と、まだむいていない方。重かったろう」
袋の硬い角が腕に戻ってきた。
行きより帰りの方が重かった。途中で持ち替えるたびに、籠の持ち手が同じ所を擦った。
「おばあさん」
呼んだら声が揺れた。
「リンゴ、四つになった。傷んだのは、煮て食べた」
「食べたんだね」
「うん」
「よかった」
リタはもう一度、うん、と言った。怒るつもりだった。聞くこともあった。けれど先に、届ける物を減らしてしまった話をしていた。
「そっちに帰れないの。糸も切られて」
「こちらの道も、持っていかれた」
声が遠くなる。リタは顔を近づけた。遥が背中の服へ触れたので、そこで止まった。
「戸を離れられないんだよ。ここまで取られると、帰ってくる人が――」
後ろは水音に消えた。
「紬のいる所に、同じ印があるの」
「境の戸だよ。迷った人が、見つけられるように」
「どうして教えてくれなかったの」
今度は返事がなかった。
糸を引けば近くなる気がした。リタが指を曲げると、木の床が軋んだ。慌てて緩める。
「急いで来ようとしないで」
かすれた声が戻った。
「こっちにも、帰れない人がいる」
リタは言った。
「その人が、おばあさんの戸を見つけてくれた。わたし、一人じゃないよ」
「そうかい」
祖母の息が聞こえた。
緑が細くなった。最後に何か言ったようだったが、リタには聞き取れなかった。
川の匂いが消え、箱には元の廊下が残った。
*
紬も声を聞いていた。
古い戸の隙間から風が来て、開いたところに森が見えたという。近づく前にまた閉じた、と書いてあった。
リタは紙を机に置いた。
祖母は知っていた。戸の向こうに別の道があり、そこを歩く人もいると知っていて、リタにはいつか話すと言っていた。
「いつかより先に、来ちゃった」
遥は頷きかけ、やめた。
「おばあさん、怒ってた?」
「わからない」
「リタは?」
「怒ってる」
言ったのに、目がまた濡れた。
遥はティッシュを寄せてくれた。今度は受け取った。
昼が過ぎると、箱から冷たい風が来なくなった。
リタは普通のひもで祖母の結び方を遥へ教えた。赤い方には触れなかった。
遥は一度失敗し、二度目で結べた。




