第8話 戻ってくる台車
「電話、来てませんか」
遥が尋ねると、店主はエプロンのポケットからスマホを出した。短く画面を確かめ、首を振る。
「ないな。車が遅れるなら、いつも先に知らせてくれるんだけど」
牛乳の入った袋が、遥の指へ食い込んだ。
電話が鳴らないことを、何でもなかったように受け止めたかった。叔母も以前は、紬が遅れると「友達と話してるんでしょう」と言っていた。あの日の夕方も。
「いつも同じ人ですか」
「だいたいね。今日は徒歩で小口の分を持ってくるって言ってた」
店主は電話をかけた。呼び出し音は遥には聞こえなかったが、耳に当てたままの時間が長かった。
向かいでリタが買い物の紙を折り直している。帰るための荷物はそろっていた。
「出ないな。まあ、途中かもしれない」
店主は電話をしまった。
帰ろう、とリタが買い物の紙をしまった。遥は頷きかけ、店主へ向き直った。ひとつだけ聞いてから帰る。そう思って口を開いた。
「今朝、向こうの路地で鍵を拾ったんです。もう交番に届けたんですけど、落としたっていう人、来てませんか」
「鍵? どんなの」
許可を取って写真を見せる。店主は画面に顔を寄せ、知らないな、と言った。
「最近、物をなくしたって話なら聞くけど」
「何を?」
「鞄とか、財布とか。この先の惣菜屋の人がね、夜道で呼ばれて、気がついたら反対側の通りにいたって」
遥は指を止めた。
「呼ばれた?」
「そう言ってた。帰ってる途中なのに、うちの人の声が後ろからしたって。振り返って、そっちへ行ったところまでは覚えてるらしい」
リタが顔を上げた。リタが買い物の紙を潰した。
「その人、今日は店にいますか」
「たぶん。自分で聞くなら、忙しいときは邪魔しないようにね」
礼を言って店の外へ出た。
屋根の下は明るく、家族連れが惣菜の袋を抱えて歩いている。店主が指さした店からは、揚げ物の匂いがしていた。
リタが声を落とす。
「おばあさんじゃない声も、できるのかな」
「……誰の声でも、出せるんだとしたら」
「うん。でも、聞きたい」
遥も聞きたかった。
先に叔母へ、買い物は終わったこと、近くの店で拾った鍵について聞いていることを送る。帰る時間は変えないとも添えた。
*
惣菜屋の人は、注文の客が途切れてから話を聞いてくれた。
五日前の夜。閉店後、裏通りを歩いていた。
夫は家にいるはずだった。なのに角の向こうで自分の名前を呼んだので、迎えに来たのかと思ったという。
「顔は見えましたか」
「見てないの。声だけ。夜でね」
遥は店の端に立ち、ノートを開いた。時刻は詳しく覚えていない。曲がった角も、今歩くと普通の通りへ出る。
「気がついたらどこでした?」
「川沿いの歩道。いつもと反対の方に行ってて、鞄もなくて。私、ぼんやり歩いたのかなって」
帰宅して夫に聞くと、ずっと家にいたと言われた。電話もしたが、鞄と一緒にスマホをなくしていたため、相手が呼んだ記録も確かめられなかった。
鞄については、翌日届け出たらしい。
「この鍵に見覚えは」
「ないわ。私のは明るい茶色のケースだから」
遥はその答えも書いた。
リタは棚に置かれた揚げ物を見ているようで、片方の手をずきんの裾に当てていた。遥がノートを閉じると、ようやく指を離した。
「ありがとうございました」
「二人も気をつけて。暗い道には入らないようにね」
買わずに尋ねたことが気になったが、預かったお金を勝手には使えない。遥はもう一度礼を言い、リタと店を離れた。
「あの人は、帰れたんだね」
リタが言った。
「うん。五日前の夜のうちに」
「じゃあ、帰れるところへ出ることもある」
「置いてきた場所へ戻ったんだ」
遥は言ってから、ノートを開いた。川沿い。いつもの通りと反対側。声に付いていった人が、家へ戻れた場所。
「どうしたら、そこへ出るの?」
「次の人に聞くしかない」
リタは顔をしかめた。
「次の人がいるの、嫌だ」
遥は鉛筆をしまった。
スマホが震えた。
叔母から、了解、気をつけて帰ってきて、と届いている。
時計は四時を少し回っていた。
「帰ろう。牛乳、冷やしたいし」
ノートをしまって、家に向かう方の入口へ歩く。鉄の鳥が見えた。買い物をしたときとは逆側から見ると、一羽の翼がもう一羽の首に重なっていた。
そこまで来て、リタが足を止めた。
脇の細い通りに、箱を積んだ手押しの台車がある。配達に使う黒い帯が、箱を縦に押さえていた。
男の人がそれを押し、角を曲がっていく。
「あの人、さっきもいた」
「配達の人なら、何軒か回るから」
「同じ方へ曲がったの」
遥は台車の消えた角を見た。
リタは持ち手を握ったまま、反対側へ顔を向ける。
「音、反対からする」
車輪の軋みが、さっき男が来た方へ近づいていた。
箱を積んだ同じ台車が、こちらへ出てきた。




