第7話 買い直せないもの
昼食のあと、遥は使っていないノートを机に置いた。
表紙に、調査、と書きかけてやめる。代わりに二人の名前を書いた。リタが横から見て、右の文字を指さした。
「これが私?」
「そう。リ、タ」
「二つでいいんだ」
リタは鉛筆を借り、表紙の下の隅へ同じ形を描いた。最初の線が長すぎて、名前が遥のものにぶつかった。消そうとしたので、そのままでいいと伝える。
一ページ目には、今日歩いた道を描いた。
家の四角。花の鉢。信号。交番。路地は少し離れたところに描き、壁の傷と鍵の印をつけた。遥が矢印を足すと、リタがそれを指でなぞる。
「この角、こんなに近かった?」
「ノートに入れるために縮めたから」
「糸で確かめる?」
「今はほどかない」
リタはあ、とずきんの裾を離した。
鉛筆で曲がり角を直すと、さっきまでの道は消しゴムのかすになった。リタはそれをつまんだ。
「布も、こうならいいのに」
遥は『糸』と書きかけた鉛筆を止め、かすを一緒に集めた。
向かいの椅子に座ったリタが、鉛筆をくるくる回した。
「帰る道、今日もなかったね」
「明日も、同じ壁だけじゃ駄目だね」
リタは消しゴムのかすを手で集め、黙って机の端へ寄せた。
遥は次のページをめくった。そこに森の道を描いてもらうつもりだったのに、リタの手は動かなかった。
台所で冷蔵庫が開く音がした。
「リンゴ、これ?」
叔母が皿を持ってくる。昨日落下して傷がついた一つだった。茶色い打ち身が、朝より広くなったように見える。
リタは立ち上がった。
「だめになった?」
「まだ、切って確かめないと分からない。でも、これをこのまま長く取っておくのは難しそう」
叔母は皿を机に置いた。リタが触るところを探してから、リンゴを持ち上げる。
赤い皮の無事なところを、指の腹で撫でていた。
「おばあさんに、五つ持っていくって」
「切って煮たら、持っていける?」
遥が聞くと、叔母が首をかしげた。
「帰れる日が分かれば考えられるけど、煮たものも、いつまでも取っておけるわけじゃない」
「じゃあ、買い直せば?」
遥が言った。
リタの指が皮へ食い込んだ。叔母が遥を見た。あ、と思ったときには遅かった。
「これ、わたしが採ったの」
「うん。だから……」
「おばあさんの木から。上の枝に、手が届かなくて」
遥は机の下へ手を下ろした。
リタはリンゴを皿へ戻した。
「おばあさん、傷のあるところは切るの。残ったところを、鍋に入れる」
「それなら、今日は一つそうしようか」
「まだ」
小さな声だったが、叔母は手を止めた。
「帰ったら一緒に切るって、考えてた」
リタの目は皿から動かなかった。
「明日の朝、もう一度見ようか」
叔母が言った。
「今日は冷蔵庫に戻す。食べるかどうかも、勝手には決めない。残りの四つも一緒に確かめる」
リタはうなずき、皿を自分で持った。
冷蔵庫へ戻すとき、扉の内側に貼った名前を指で押さえる。付箋の端が少し浮いていたのだ。
*
叔母は夕飯のための紙を、ノートの横へ置いた。
にんじん、玉ねぎ、牛乳。
リタが読めるように、遥は文字のそばへ小さな絵を描いた。牛乳の箱だけは形を知らないので、空になったものを見せてもらう。
「これを買ってくるの?」
「私が行くつもりだけど」
「私、行きたい」
叔母はリタの手のひらを見る。
「荷物を持てる?」
「籠なら、このへんで」
リタは取っ手を肘へかけてみせた。遥が見る限り、昨日ほど顔をしかめていない。けれど袋いっぱいの牛乳を持つには、その籠は小さかった。
「重いのは私が持つ。一緒に行けば、道も覚えられる」
遥が言うと、叔母は時計を見た。
「なら二人で。商店街の店までにして、寄り道するなら連絡して。五時までには戻ってね」
遥はノートの端に大きく五と書き、時計を見せた。リタは針の位置を真似して丸を描く。
「ここになったら、家にいる」
「その前に帰ってこられるように出るんだよ」
叔母が笑う。リタも少し笑った。
買い物の紙とお金を預かった。
「これ、いくつあったら玉ねぎ?」
「店で一緒に数えよう」
リタは硬貨を見比べたが、分からないまま財布へ戻した。紙だけは籠へ入れず、服のポケットにしまった。
「リンゴも売ってる?」
「たぶん。今朝、通った八百屋にもあった」
遥は買い足せばいいと言いかけた。
「見るだけでもいい?」
リタが聞いた。
「うん。どんなのか見よう」
借りた服の袖を直し、赤いずきんをかぶり直す。叔母にもらった布の買い物袋を、遥は鞄へ入れた。
玄関でリタが振り向いた。
「お金、なくさない。道も勝手に変えない」
「困ったら、遥と相談してね」
叔母が返すと、リタは遥を見た。
「今日は私が買うの、手伝って」
遥は扉を開けた。
門を出て、リタは一度だけ台所の窓へ顔を向けた。
「買い直すって言って、ごめん」
遥が言うと、歩く音が途切れた。
「新しいのも、見たい」
リタは買い物の紙を開いた。
「見てから、わたしが決める」
鉛筆で描いた玉ねぎが、少し曲がっていた。遥はそれを直そうとせず、紙を持つ少女に歩幅を合わせた。
*
商店街の入口には、鳥が二羽向き合っていた。
本物ではない。鉄の棒の上についた平たい鳥だった。
「これなら間違えない」
「帰るときの目印?」
「うん。こっちの鳥の下から入った」
八百屋では、買い物の紙を見ながらにんじんと玉ねぎを選んだ。
硬貨はまだ分からない。後ろに客が並ぶと焦り、五十円玉を一枚落とした。
「わたし、払うから」
「うん。ここに置いて」
遥は皿だけ指した。最後まで自分で出すと、リタは返ってきた硬貨を財布へしまった。
店を離れる前、赤いものが見えた。
木箱ではなく、浅い段ボールの中にリンゴが並んでいる。丸い皮に光が滑り、一つずつ小さな紙が貼られていた。
「これ、傷を隠してる?」
「シール? そういうのじゃないと思う。名前とか、産地とか」
店の人が一つ持ち上げ、リタに見せてくれた。シールのない側も滑らかだった。甘い匂いはする。でも、祖母の庭のリンゴより、ずっと大きい。
「こっちも木になるの?」
「なるよ。山の方の畑でね」
リタは棚に置かれた値札を見た。遥に数字を読んでもらい、財布の中を思い浮かべる。
買えば、五つをそろえられる。
さっきの皿のリンゴを切っても、届ける数は減らない。
手を伸ばしかけて、買い物の紙を握った。預かったお金だった。
「今日は頼まれた分だけにする」
店の人へ言うと、じゃあまた今度ね、とリンゴを戻してくれた。
「傷んだのを切ったら、数が減るね」
遥は棚のリンゴを見て言った。
「数だけならね」
リタは財布を握り直した。
「……あっちのリンゴ、小さいけど、わたしとおばあさんで採ったの」
「それ、昨日の朝?」
「一緒に採ったのは、その前。高い所のを取ってほしくて、膝、悪いのに呼んじゃった」
祖母は一本も高い枝へ登らなかった。杖の先で枝を寄せ、背を伸ばすリタの後ろから籠を支えた。その籠を持って、別の世界へ来てしまった。
遥は棚を見ていた目をリタへ戻した。
「違う方のリンゴも、持っていけたらいいね」
遥が言った。
「そのときは、自分のお金で買う」
「まず、おつりが数えられるようにしようか」
リタは財布を大事にしまった。
*
次の店へ向かう途中、遥が脇の通路へ目をやった。
入口には、木の板に白い字が書かれていた。リタには読めない。奥で段ボールが動き、顔だけ出した男の人が遥に片手を上げた。
「今日は裏からじゃないのか」
「荷物を取りに来たわけじゃないから」
遥が答えた。
店の人は台車を押し、表の入口へ箱を運んだ。白い液体の箱が並んでいる。牛乳だった。
「ここ、知ってるの?」
「小さい頃から来てる。おばさんが店の人と知り合いで、裏で空き箱をもらったこともある」
遥は少し腰を落とし、脇の通路を見た。
「あそこに段が二つ。その奥が裏口」
裏の段は二つ。上の段の角に、欠けた白い塗装がある。遥は指ささずに言えた。いつも歩く場所なのだと、リタにもわかった。
牛乳を運ぶ箱の端に膝をぶつけ、遥は小さく声を上げた。
牛乳を布の袋に入れたところで、店の人が時計を見上げた。
「今日も遅いな」
「何がですか」
「配達。もう来てるはずなんだけど」
店の人は通路の先をのぞいた。
リタもつられて目を向けたが、誰も来なかった。




