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第6話 誰かの鍵

リタは籠へ置いた糸を、ずきんの端へ重ねた。


 伸ばしたぶんを元へ戻そうとして、指が止まる。

 引き出した赤は、布の縁にうまく重ならなかった。


「それ、しまえる?」


 遥が聞いた。


「しまうのは、できる。布にするのは、編まないと」


 糸を軽く巻いて、ずきんの内側へ挟んだ。

 祖母なら、もっと小さくまとめただろう。リタは縫い物を手伝ったことはあっても、布を最初から作ったことはない。


 今朝までまっすぐだった裾が、少しだけ短くなっていた。

 指を当てて確かめる。


「今日、出したぶんだけ?」


「うん」


「次に出したら、もっと減る?」


 裾を重ねると、指一本ぶん、長さが合わなかった。リタは短いほうを内へ隠した。誰に隠すつもりなのか、自分でもわからない。

「おばあさんなら、編めるんだけど」

「リタは?」

「……縫うとき、すぐ眠くなるって怒られた」

 あのとき起きていれば、今ここで元へ戻せたのだろうか。


「こんなに長く出すの、初めて」


 遥が赤い布を見る。


「森では、使わなかった?」


「道を知ってたから。おばあさんに教わった時は、川の白い石まで」


 祖母の手が、リタの指へ糸を掛けた。

 通った道を思い出すこと。知らない道まで探そうとしないこと。糸は先へ行くためではなく、戻るために使うこと。


 その時の自分は、あんな目立つ石をどうやって見落とすのかと笑った。


 祖母は笑わなかった。

 リタの手の上で、結び目だけをきれいに直した。


「帰る道があると、遠くへ行けるからね」



 リタは布をたたんだ。

 首に巻きつけず、肩へ載せる。


「今日はもう、たくさんは出さない」


「さっきの糸は、また使える?」

「切ってないところは」

「じゃあ、新しいのは取っとこう」

 遥が壁を離れた。リタも籠を持った。


 リタは籠を持ち直した。


「遥の道は、何が減るの?」


 遥の指が止まった。


「何が?」


「壁を開けた時。わたしは布が減る。遥は手が震えてた」


 遥は右手を見る。

 爪の先を、左の指で押さえた。


「物が減るわけじゃない」


「痛い?」


「昨日、出たあとで、地面が遠かった。足はついてたんだけど」

「遠い?」

「座ったら、戻った」


「怖くても、開けてくれたんだね」

 言うと、遥が指を握った。

「昨日はほかになかったから」

「じゃあ、次も……」

「次は逃げる前に気づきたい」

 リタは口を閉じた。いつでも壁を開けばいいと、もう思いかけていた。


 通りを自転車が横切った。遥がその後ろを見送り、今は普通に帰ろう、と言った。


     *


 二人で路地の奥まで歩いた。


 角を曲がると、青い屋根の駐車場へ出た。

 遥はしばらく黙って、その景色を見た。


「昨日、ここへ出たかった」


 リタは振り返った。

 瓶のある壁ではない。ここからなら、反対側の通りへ歩いて出られる。


「道が戻ってる?」


「昨日はここがなかった」


 遥は壁の端を写真に撮った。

 リタは地面を見た。雨の水が溝へたまり、ゆっくり流れている。木の葉が一枚、縁へ引っかかっていた。


 葉の隣に、小さな黒いものがあった。


「これ、持ち物かな」


 遥がしゃがむ。

 手を伸ばす前に、スマホで撮った。


 黒い革の小さなケースに、鍵が一本ついていた。ほつれた角を白い糸で繕ってある。縫い目は途中から曲がり、最後の一針だけ妙に長かった。

 下手だけれど、捨てずに使っている。持ち主は、ここまで戻って探しただろうか。


「鍵のケース。誰か落としたのかも」


 リタは祖母の家の鍵を思い出した。

 こんなに小さくはなかったが、扉を開けるためのものなら同じだ。


「これがないと、家へ入れない?」


「そうだね」


 遥が輪のところを見る。

 そこに、細い赤が挟まっていた。


 リタは自分のずきんを押さえた。


「わたしの糸?」


 出したものは、ちゃんと布の内側にある。

 ここではまだ糸を出していない。


 遥も、二人が歩いてきた地面を見た。


「落ちてきた時に、引っかかったのかな」


「この場所は、知らなかった」


 リタは赤い繊維へ顔を近づけた。

 暗く汚れた繊維は、二本を撚り合わせていた。祖母の糸と同じ撚り方だった。近づけた指がかすかに温かくなる。こんな場所へ、祖母が来るはずはない。


 誰かの帰るための鍵に、道しるべがついている。


 遥が顔を上げた。

 リタではなく、駐車場の奥の壁を見ている。


「そこ、触らないで」


 低い声だった。

 リタは手を引いた。


 遥の目が、昨日右手を開いた時と同じになっていた。


     *


壁の傷を見た瞬間、遥は息の仕方を忘れた。


 白い塗装の下に灰色の地がのぞいている。高さは膝より少し上。細い傷が、浅い弧を描いて六つ並んでいた。


 端の一つだけが深い。


 雨で汚れた壁に、そこだけ黒い影が落ちている。


「遥?」


 リタの声がして、ようやく胸が動いた。


「触らないで。鍵も、まだ」


 言い方がきつくなった。リタは伸ばしかけた手を籠の取っ手へ戻した。遥はその指を確かめてから、壁に目を戻す。


 深い一本へ指を置こうとして、やめた。そこに触れれば、残りの五本も並んで出てくる。白い袖が向こうへ行く。自分の名前を呼ぶ声が、途中で切れる。

 スマホを構えたら画面が傾いた。リタが端を持った。

「まだ、撮らない?」

「撮る」

 六つの傷が画面へ入った。遥は息を吐いてから押した。


「昨日はあった?」


「分からない」


「でも、落ちる前の歯は見たよ」

 リタは指を曲げてみせた。

「こんな大きさ。糸が、間に挟まってた」

 遥は自分の指を開けなくなった。あの日は、何を挟んでいたのだろう。紬の手だったか。袖だったか。もっと大きな、歩いて帰るはずだった道そのものか。

「鍵、拾っていい?」

 リタの声で顔を上げた。ケースの角には白い縫い目、輪には赤い繊維がある。

「その糸、おばあさんの縫い方なんだって?」

「そう見える。でも、わたしは落としてない」

 昨日ここにいた男は、この鍵の持ち主も呼んだのだろうか。家族の声で。

 遥は傷と鍵を同じ写真に入れた。鞄からハンカチを出し、ケースに被せる。


 風が路地へ入り込んだ。軽い紙くずだけが動き、鍵は動かなかった。


 ここに落とした人は、家へ帰れただろうか。


 紬は出かける前によく、鍵を探した。靴を履いてから鞄をひっくり返し、結局は制服のポケットにあった。遥が呆れると、先に言ってよ、と怒った。

 失くし物をしただけなら、そうやって怒っていられる。遥はハンカチの角を折り、鍵が転がらないようにした。


「持つ?」

 リタが両手を出した。

「大丈夫。落としそうになったら、頼む」

 言いながら、遥は力を緩めた。金具を強く握っても、この鍵を探している人には伝わらない。


 鍵をなくして困っているだけならいい。別の道から帰って、予備の鍵で扉を開けていてほしい。


 叔母に電話すると、鍵より先に二人の怪我を聞かれた。

「平気。落とし物、交番に持っていく」

『私も行く。そこで待ってて』

「お昼、遅くなる」

『連絡したんだから、それはいいの』

 切ったあと、リタが時計をのぞいた。十一時を過ぎている。帰れる気がした朝から、たったこれだけしか進んでいない。

「鍵を預ける。誰かが探してるかもしれないから」


 リタは溝を見下ろした。


「預けたら、もう見られなくなる?」


「たぶん、勝手には触れなくなる」


 不安そうに籠の取っ手を握る。遥にもその気持ちは分かった。この鍵だけが、失われた道の手がかりなのかもしれない。


 包みを閉じようとすると、リタが白い一針をじっと見た。覚えているつもりらしい。遥も画面を一度拡大してからしまった。


「写真は残る。拾った場所も覚えてる」


 ケースをハンカチで包むと、意外に軽かった。


「籠に入れる?」


「私が持つ。……今は、それ、離したくない」


 リタはそっか、と取っ手を引いた。


 帰る前に、遥は壁の傷を振り返った。


 誰かの鍵を握っている。あのときも、何か握っていればよかった。紬の手を最初から離さずにいれば。

 ハンカチの中で鍵が掌に刺さった。


「遥、壁のこと、知ってるの?」


 リタは責めるようには聞かなかった。籠を両手で持ち直し、遥から一歩離れたところに立っていた。


「この壁は知らない」


 その言い方では、答えにならない。


 遥は包んだ鍵に目を落とした。


「似た傷を、前に見た」


「森につながる場所で?」


「そうじゃない。こっちで」


 続きを言おうとすると、舌が上顎に貼りついた。リタは待っていたが、遥は何も出せなかった。


 路地の向こうで自転車のベルが鳴った。買い物袋を積んだ人が、二人を避けて通りへ抜ける。


 その背中が角を曲がるまで、遥は見ていた。


「今はそれだけ」


 リタはうなずいた。


「じゃあ、知ってる分だけ持っていこう」


 籠を軽く揺らして、彼女は歩き出した。遥を先へ置いていかない速さだった。


 遥はスマホを鞄にしまい、ハンカチの包みを握ったまま、その隣へ並んだ。


     *


交番は、リタが思っていたより小さかった。


 森で落とし物を見つけたら、村の広場へ持っていく。そこには誰かがいて、革の傷や結び紐から、たいてい持ち主を思い当てる。遥に連れられた建物には広場もなく、白い壁と机と椅子があった。


 鍵を知っている人は、すぐには見つからなかった。


 叔母は二人より少しあとに来た。髪が耳のそばで一束だけ浮いていた。家を出るときに急いだのだと、リタにも分かった。


「それで、拾ったのはどっち?」


「私。見つけたのはリタ」


 遥が包みを机へ置く。叔母はまず二人の顔を見て、それから椅子を引いた。


 拾った場所を説明すると、制服の人は住所を書き留めた。リタが「こっちへ帰りたい人の鍵です」と言うと、筆が止まる。

「持ち主のお知り合い?」

「知らない。だから、見つけてほしいの」

 遥が横から写真を見せた。壁の傷、赤い繊維。そこに祖母の声を出す男がいたことも話す。

 リタはずきんを膝で押さえた。これをほどけば、もっと早く信じてもらえる。でも、そうしたら遥の壁はどう説明するのだろう。

「男の人は、おばあさんの声だった」

「女性の声で呼ばれたんですね」

「女性じゃなくて、おばあさん」

 遥が一度、袖に触れた。リタは言い直すのをやめた。


 制服の人は途中で遮らずに聞いた。男の服や顔について尋ねられると、リタはうまく答えられなくなった。


 目の色を、覚えていない。


 ずきんを見つめていた顔の輪郭も、はっきりしなかった。


「声は覚えてるのに」


「思い出せるところまででいいです」


 その言葉に、リタは膝の上の手を開いた。


 昨日から、知らない場所で知らない人に説明してばかりだった。森の道の話をすると、聞いている人の顔が少し変わる。そのたび、言い方を間違えた気がした。


 叔母は隣の椅子から、リタの籠を受け取って床へ置いてくれた。取っ手を握りすぎた指に、白い筋が残っていた。


     *


 外へ出ると、風が暖かかった。


 ガラスの扉が閉まり、机に置いた鍵は見えなくなる。遥の手には、代わりに小さな紙があった。彼女はそれを折らず、鞄のポケットへ入れた。


「持ち主、見つかる?」


「まだ分からないって」


 遥はそう答えた。


 叔母が二人の間に立つ。


「今日はここまで。まず帰って食べよう」


「壁の写真、もう少し見たい」


「家でも見られるでしょう」


 遥は言い返さなかった。交番の前から大きな通りへ歩き出す。叔母が車の来る側、リタがその内側。遥は半歩先だった。


 赤信号で三人が止まったとき、リタは遥の袖をつまんだ。


「糸の話、しなかった」


「うん」


「でも、鍵のことは私も知ってる。私が落ちたところにあったから」


「うん」


「また調べるときは、一緒に行く」


 遥が振り向いた。袖から手を離すと、リタの指には制服とは違う薄い布の感触が残った。今朝借りた服だった。


「自分の帰り道だから?」


「それもある」


 リタは信号を見た。まだ赤い。向かいの人たちは、こちらへ来ようとして待っている。道が見えていても、今は渡れないのだと、少しだけ分かってきた。


「鍵の人も、家へ帰れないかもしれない」


「鍵だけなくしたのかもしれないよ」


「だったら、それでいい」


 遥は何も言わなかった。


 信号が青に変わる。叔母に促され、リタも歩いた。渡り終えてから、遥が小さく言った。


「私も、気になってる」


「じゃあ、探す」

 リタが歩き出すと、叔母に襟の端をつままれた。

「どっちへ?」

 気づけば、来た道へ戻りかけていた。

「……まず、家」

「そう。お腹を空かせて、朝と同じ壁を見に行かない」

 少し先で、遥が手を振った。


 リタは遥の隣へ戻った。


「紙もらっていい?」


「家にある。私のノート、一冊空いてる」


「私、こっちの文字、全部読めない」


「私が書く。リタは道を描ける?」


「森なら」


 遥が少し笑った。


「こっちも描いてみよう。今、通ってる道から」


 リタは振り返った。信号。その横の低い建物。曲がり角に置かれた植木鉢。森なら枝の形や石の並びで覚えるところを、この街では何で覚えればいいのだろう。


 足元に、小さな丸いふたがあった。花のような模様がついている。


「これも描く」


「それ、同じのがいっぱいあるよ」


「じゃあ、これだけじゃ足りないね」


 二人で立ち止まり、角の建物と一緒に覚えた。叔母は少し先で待ってくれた。


「鍵の家も、描けたらいいのに」

 言うと、遥は返事をしなかった。交番でもらった紙を鞄の上から押さえる。

 受付の番号。持ち主の名前の代わりに、それがあった。

 リタは鉄の鳥のある屋根を覚えた。帰る道を探す間に、この町で覚える物ばかり増えていく。森の音を忘れないよう、川までの曲がり角を口の中でたどった。

 白い石へ着く手前で、あの声を思い出し、そこで止まった。

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