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第5話 途切れた糸

家を出て最初の角で、リタは立ち止まった。


 白い植木鉢。低い塀。その向こうに、昨日遥が開いた壁がある。

 赤い花は、朝になると少し色が薄く見えた。


「そこ、曲がるんじゃない?」


 遥が聞く。


「帰る時に、わかるように」


 リタは振り返った。道瀬家の門は、この角から三軒目だ。左へ向くと植木鉢。右を向けば、小さな木の枝が窓へかかる。

 今度は自分で覚えられる。


「もういい」


 言うと、遥が歩き出した。

 昨日とは反対向きに道をたどる。リタは籠を腕へ掛け、空いた手でずきんの結び目を直した。


 風が吹いていた。

 朝の街には、森に似た匂いも混ざっている。小さな庭から土の匂いがした。濡れた葉を掃く人がいて、箒の音は家で聞くものと同じだった。


 遥はリタが見ているものを時々説明した。

 白い線の内側を歩くこと。道を横切る時は左右を見ること。赤い光では止まり、青い光になっても、車が止まったか確かめること。


「青なのに、見ないといけない?」


「間違える人もいるから」


 リタは信号と車を交互に見た。

 決まりがあっても、誰も間違えないわけではない。

 森の道でも、木へ結んだ布の目印が落ちていることがあった。


 駅の屋根が見えると、昨日の音が戻ってきた。

 車、人、どこかで鳴る高い音。リタは歩く速度を落とした。


 遥も遅くなった。


「あいつがいたところは、向こう」


 通りの反対側を指す。

 今日は男はいない。小さな台を押す人が荷物を運び、壁の前を通り過ぎた。


「声がしても、顔を確かめる」


 リタが言った。

 遥はこちらを見た。


「昨日の人は、おばあさんじゃなかった」


「うん」


「森でも、そうだったかもしれない」


 リタは歩道の向こうを見た。昨日の男はいない。いてほしくないのに、もう一度、あの声だけ聞きたかった。

「歯も見た」

 リタが言うと、遥の歩く音が止まった。

「白くて、大きい。糸を噛んでた」

「糸……?」

 リタはずきんの裾をつまんだ。遥はその手を見ず、通りの向こうの壁を見ている。何かを探す目だった。

「遥も、見たことあるの?」

「場所に着いてから、話して」

 答えになっていなかった。けれど遥は先に歩き出し、リタが追いつくまで二度振り返った。


     *


 路地の入り口は開いていた。


 昨日、灰色の壁に変わったところを、人が普通に歩いていた。遥がリタを車道から引いた場所も、その隣にあった。

 歩道と路地の境目に、割れた瓶が転がっている。


 遥は瓶を見て、靴を止めた。


「これ、奥にもあった」


「昨日、戻ってきたところ?」


 遥がうなずく。

 リタも覚えていた。走っても同じ壁へ着いた。男がゆっくり近づいてきた。


 今は奥へ真っすぐ進める。

 曲がり角も見える。


 遥はまず通りへ戻る道を確かめ、それからリタを促した。


「何か変わったら、すぐ戻る」


 二人で進んだ。

 リタは落ちた場所を探した。背中を打った壁の前。そこから顔を上げた時、横に青い四角があった。


「あれ」


 壁の途中に、青い板がはまっていた。

 見えない道があると思い、昨日は押してみた場所だった。


「点検口かな」


 遥が言う。


「開く?」


「鍵がある。勝手に開けたら駄目だと思う」


 リタは手を引いた。

 青い板には、小さな鍵穴があった。自分の指が入るほどの穴でもない。森に落ちたときは、こんな物を通っていない。


 代わりに、隣の灰色へ触れた。

 ここに落ちた。

 五つのリンゴを数えた。

 森がなかった。


 昨日と同じ冷たさだった。


「穴、ないね」


 遥が頭の上を見た。

 リタも見上げる。黒い線が空を渡っている。葉も枝もない。

 ずきんが引っかかった木は、どこへ行ったのだろう。


「落ちたもの、何かある?」


 遥はしゃがんだ。

 地面を触らず、見える範囲をゆっくり確かめる。

 リタも籠を置いて見た。古い紙片、小さな石、平たい銀色の物。どれも森にはなかったものだ。


 自分の足元には、何もない。


 遥がスマホで壁の写真を撮った。


「あとで比べられるように」


 写真に写った壁を見せてもらった。同じ壁だった。指でなぞっても、何も開かない。

「その板の中へ道は入れられる?」

「写真だから、無理」

 遥はスマホを下ろした。リタも壁から手を離す。今朝帰れるつもりで、リンゴを磨いてきたのが馬鹿みたいだった。

 ずきんの端に、短い赤が出ている。祖母に教わって以来、森で迷うことはなかった。昨日、この糸がどうなったのかを見るのは怖い。でも、触らずに帰ったら、明日もこの壁の前へ来ることになる。


「遥。わたしも、できることがある」


 ずきんを外し、両手に載せた。

 赤い布は、朝の光では少し透けて見えた。


「忘れた道を、たどれる」


 遥が布へ目を向けた。


「どうやって?」


 リタは布の端を探した。

 短く出ていた糸を、指へ掛ける。


「おばあさんに、教わった」


 引くと、赤い糸がするすると伸びた。

 風がないのに、先が動く。


 糸は二人の歩いてきた入り口へ向かっていた。


     *


糸は地面に落ちなかった。


 リタの指から伸びた赤い線が、膝の高さで細く揺れている。引いたぶんだけ長くなり、路地の入り口へ向かう。

 遥は手を伸ばしかけ、止めた。


「触っていい?」


「うん。でも引っ張らないで」


 指先で受ける。

 普通の糸より少し温かかった。風のように軽いのに、引こうとすると別の場所へ続いている手応えがある。


「ここへ来る時に、通った道」


 リタが言った。


「私たちが歩いてきたところ?」


 うなずく。

 遥は入り口を見た。糸の先は、さっき曲がった角へ向いている。


 糸は来たときに曲がった角へ続いていた。遥の手を滑り、そこから先へも伸びていく。ずきんの裾が斜めに痩せた。

「待って。それ、ほどけてる」

「ほどかないと出せないの」

 リタはそこで指を止めた。遥は糸を返した。


「もっと前の道は、出せる?」


「思い出せれば」


「森の道も?」


 リタは壁を見た。


「そのために来た」


 顔を上げると、少女はうなずいた。

 ためらっているというより、息を整えている顔だった。


 遥は入り口と路地の奥をもう一度見た。

 男はいない。


「私、ここにいる。外も見てるから」


 リタは布を胸へ寄せた。

 赤いずきんの裏側に、細かな縫い目が見えた。誰かが繕った跡がある。新しい物ではない。


「川のところから、こっちへ来た道」


 小さな声で言う。


 指へ掛かった糸が、向きを変えた。


 今度は入り口ではない。

 青い点検口の隣、落ちたと言っていた壁へ向かう。


 赤い線が高くなり、壁へ触れた。

 遥は息を止めた。


 壁の表面が、少しだけ違って見えた。

 黒い線ではない。薄い赤が、石の粒の間へ落ちている。触れたところが奥へ続いているようで、でも指の届く位置にある。


 昨日、自分が穴を開いた時とも違った。


 リタが布を送る。糸が少し伸び、線の先が壁の中で跳ねた。


 ぷつ、と音がした。


 遥はリタの手を見た。

 糸はそこからまだつながっている。切れたのは、向こうの端だった。


「……ここまで」


 リタが言った。


「もっと、出せない?」


 リタは端を見て、ゆっくり首を振った。


「長さじゃない。道が、ここで切れてる」


 遥は近づいた。

 リタから許可をもらって、端を指の上へ載せる。

 そこだけ冷たかった。


 繊維が同じ高さにそろっていない。短く、何度もちぎられたような先だった。


「穴に落ちた時、こんな音がした」


 リタの声が低くなる。


「歯が、糸を挟んでた。おばあさんの声を聞いたあと」


 遥が端へ触れようとすると、リタは布を後ろへ引いた。

「ごめん。もう、いい」

「引っ張らないよ」

「わかってる。でも……」

 言い終わらなかった。赤い線だけが、指の間で震えている。遥は空の籠を寄せ、底へハンカチを敷いた。

「置いたら、なくなる?」

「出した糸は、残る」

「じゃあ、ここ」

 リタはゆっくり下ろした。長い糸は収まったが、布の裾は少し短くなっていた。


 遥は壁の赤い跡へ顔を近づけた。

 もう薄くなっている。


「帰り道がないってこと?」


 聞いたあと、言い方が悪かったと思った。

 リタは首を振る。


「前にはあった。わたし、ここへ来たから」


 遥は黙った。


「今は途中がわからない」


 リタは籠の中の端を見た。


「戻れないって決まったんじゃない」


 遥は右手を握った。自分なら、切れた場所の写真を撮って帰る。それ以上探せなかった一年を、リタは知らない。

「どうやって探すの」

 尋ねると、リタは糸の端をこちらへ差し出した。

「まず、誰が噛んだか」

 端には細い裂け目がいくつもあった。遥はひとつずつ目でたどり、途中で数えるのをやめた。

「遥?」

「……写真、撮っていい?」

 画面を向ける手が震え、リタが下から支えてくれた。

 写った糸の端は、白い歯を並べたように見えた。

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