第4話 空いた椅子
朝、リタは家の中の道を確かめた。
寝ていた部屋から廊下へ。左の扉は遥の部屋。右の小さな扉は、昨夜場所を教わった便所。階段は一段目だけ少し鳴る。
知らない家で迷惑を掛けるより先に、覚えておきたかった。
ずきんをかぶり、裸足で階段を下りる。
台所から水の音がした。
「おはよう」
叔母が振り返った。
「眠れた?」
「うん。猫は、喧嘩しなかった」
「猫?」
「夜に鳴くかもしれないって、遥が」
叔母は小さく笑った。
「そうね。今日は静かだった」
窓の外は明るかった。
昨日の夜には見えなかった細い枝が、塀の向こうから伸びている。葉の縁に水がたまり、落ちるたび窓の下で音がした。
ここにも朝露がある。
リタは自分の手を見せた。
傷の周りは赤いが、腫れていない。叔母はガーゼを替えながら、指を動かして確かめた。
「痛みは?」
「昨日より少ない」
「背中はどう?」
肩を回し、少しだけ顔をしかめる。
「動かすと痛い。でも、息をしても平気」
「今日は無理して走らないこと」
リタはうなずいた。
あの男が来なければ、走る理由はない。
走らず帰れる道を見つけたい。
「お手伝い、できる?」
叔母は手を見てから、食卓を指した。
「じゃあ、あそこへ敷くものを。引き出しの一番上」
小さな布が重ねられていた。
取り出すと、家の匂いがした。洗った布と、昨日の汁の残る匂い。祖母の台所にも、こんな重なった匂いがあった。
椅子は四つある。
リタは布を三枚数え、机へ置いた。
昨日は端のほうへ寄って座った。今朝は朝の光のある側へ一枚、叔母が座りやすい台所側へ一枚。その向かいへもう一枚。
「そこでいい?」
「ええ。ありがとう」
叔母がパンを皿へ並べる。
昨日、遥が教えてくれた細い棒が二本ではなく、今日は一本の小さな刃があった。
「切るもの?」
「バターを塗るの。食べるのは手で大丈夫」
指へ力を入れずに食べられそうだった。
リタは皿を受け取り、光のある席へ置いた。
階段が鳴った。
「おはよう」
遥が下りてきた。学校の服ではなく、灰色の柔らかい上着を着ている。
リタは顔を上げた。
「今日は学校へ行かないの?」
「土曜だから」
「とよう?」
「休み。昨日は金曜」
「きんようの次が、とよう?」
「どよう。明日は日曜」
「覚えること、多いね」
遥の目は眠そうだった。昨夜、眠るまでいてくれたせいかもしれない。
「じゃあ、道を見に行けるね」
遥は叔母を見た。
「その話も、ご飯のあと」
叔母が言い、三人分の湯のみを運ぶ。
リタは光の側の椅子を引いた。
「そこは」
遥の声が強かった。
手を止める。
遥は立ったまま、その椅子を見ていた。
「そこ、座らないで」
リタは椅子の背から手を離した。
「ごめんなさい。遥の席?」
「違う」
「おばさんの?」
遥は答えなかった。
机の上の皿へ目を落とす。それから、リタのほうではなく、窓のほうへ顔を向けた。
椅子から離れると、自分の皿だけが机に残った。
「じゃあ、どこなら座っていい?」
責めるつもりはなかった。けれど声が思ったより尖った。遥が顔を向け、すぐ目をそらす。
叔母が隣の椅子を引いた。
「こっち。窓、よく見えるから」
リタは自分の皿を抱えて移った。器の底が掌の傷に触れた。さっきより痛い。
遥は水を飲んだ。
こちらを見ずに、自分の椅子へ座る。
食べ始める前の短い言葉を、昨日、教わった。
リタも二人に合わせて両手をそろえた。
「いただきます」
光のある椅子だけ、空いていた。
パンは温かかった。バターが溶け、端から薄くにじむ。
おいしいのに、それを言う場所を見つけられない。
叔母が天気の話をした。
雨は夜のうちにやんだこと。庭の鉢へ水をやらなくていいこと。
遥が短く返事をする。
リタは光の側を見ないように食べた。
知らない家の椅子には、知らない決まりがある。それはわかる。昨日教えてもらった電気も、熱い台も、触ってはいけない場所があった。
でも、あの椅子を引いた時の遥の顔は、熱いものへ近づいた時の叔母の顔とは違った。
*
食器を流しへ運んだあと、リタは居間の入り口で遥を待った。
遥はテーブルを拭いている。光の席の前を最後に拭き、布を畳んだ。
「あの」
呼ぶと、遥が振り返った。
「さっきは、ごめんなさい」
「もういいよ」
遥は布を見た。
その手が、机の端を小さくなぞった。
「こっちが……急に言ったから」
「あの人の部屋、隣にあるの?」
昨夜の声を思い出して尋ねると、遥の手が止まった。
「……誰のこと?」
「おやすみって言った人」
布から、水が一滴落ちた。
「今は聞かないで」
「今は」はいつまでなのだろう。リタは頷きかけてやめた。森へ帰る道を探すには、遥の助けが要る。助けてもらうたびに、聞けないことが増えていく。
「道を見に行くのは、やめたほうがいい?」
それだけは聞いた。
遥は少し驚いた顔をした。
「なんで?」
「怒ってるかと思って」
「リタに怒ってるわけじゃない」
遥ははっきり言った。
リタは息を吐いた。
「じゃあ、行きたい」
「叔母さんと話そう。私も場所、ちゃんと確かめたい」
遥が台所へ向かう。
リタも、少しあとを歩いた。
机の光の側に、椅子が一つ残っている。
誰も座らないのに、きちんと机へ押し込まれていた。
籠を取って戻るとき、リタはその椅子を遠く回った。
*
リタは出かけるなら籠も持っていくと言った。
遥は自分の鞄を食卓の端へ置き、少女の籠を見た。
五つのリンゴの上に、赤いずきんの裾がかかっている。
「重くない?」
「持てる」
「手、痛いんじゃ」
「持ち手を腕に掛ければいい」
叔母がパンの袋を閉じた。
「帰る道を探しに行くから、持っていたいのね」
リタはうなずいた。
「道が見つかったら、そのまま行けるから」
「今日、帰れるとは限らないよ」
言ってから、言わなければよかったと思った。
「見てもいないのに?」
リタは持ち手を握った。叔母が間に紙を置く。
「帰れるかどうかは、行ってみてから。まず、お昼に帰るって約束できる?」
「道が見つかっても?」
「そのときは、教えて。昨日、連れてきた子がまたいなくなったら、二人とも眠れない」
叔母は遥にも顔を向けた。
「遥も、袖まくって。帰ったら見せて」
制服の肩を見られて、黙った。
叔母は家の番号を書いた紙をリタへ渡した。
「これを見せれば、ここへ帰れる人がいる」
リタは門の形を描き足した。文字より白い植木鉢のほうを覚えたがっている。
遥は昼食の時間を大きく書いた。時計の読み方を教えると、リタは十二の位置に小さな丸をつけた。
リタは紙を籠へしまい、持ち手を握った。
「道が見つかったら、すぐ帰ってもいい?」
遥は答えられなかった。
叔母はゆっくりうなずいた。
「帰れるなら。ただ、一言教えてね。探している人がいるなら、その人にも知らせなきゃいけない」
「おばあさんには、会ったらすぐ言う」
「そうね。でも、ここでも待ってるから」
リタが叔母を見た。
「わたしを?」
「二人で出て、一人だけ帰ったら、何があったのか知りたいでしょう」
遥は鉛筆の先を紙から離した。
何も書けない間があった。
リタが紙へ指を添える。
「わかった。黙っていなくならない」
*
籠を持って玄関へ行く前に、リタは傷のあるリンゴを取り出した。
「これ、帰るまで悪くなるかな」
叔母が受け取る。皮の傷は小さいが、そこだけ色が変わっていた。
「冷やしておいたほうがいい。今は切らないで、ほかの実と分けましょう」
「冷やすところがあるの?」
台所の白い大きな扉が開く。
リタは顔を近づけた。叔母が中の卵をよけ、小さな皿を出す。
「冬の箱」
リタが言った。
遥は少し笑った。
「冷蔵庫」
「れいぞうこ。ここに入れたら、誰かが食べる?」
「食べない。名前、書いとこうか」
遥は付箋へ「リタ」と書いた。
少女が持っていた五つを、傷のある一つと、残りの四つに分けて置く。
リタは最後の一つを渡す前に、少し磨いた。
「届け物だから」
「帰る時、取るのを忘れないようにしないと」
「私も覚えとく」
空になった籠の隅に、葉の包みが残った。
リタがそれを取り出すと、叔母が庭の土へ混ぜていいと言った。
少女は嬉しそうに笑った。
リタは庭へ葉の包みを埋め、土を手の甲で払った。戻ると、冷蔵庫の扉をもう一度開ける。
「そこ、寒い?」
リンゴに尋ねている。
「冬の箱って、自分で言ったじゃん」
「傷があるの。一晩だけなら、いいと思って」
遥は扉が閉まるまで待った。リンゴを置くのにも、こんなに時間がかかる。道が見つかったらすぐ帰る、と言うこの子を、昼まで引き止めてよかったのだろうか。
リタは空の籠を肘へ掛けた。帰りには実を入れるつもりらしかった。
叔母が玄関へ来た。
「お昼は十二時。遅れそうなら、その前に」
遥はスマホの時間を見せた。
リタは数字を確かめ、靴を履く。
扉を開けると、通りにはいつもの朝があった。
昨日逃げ込んだ角も、植木鉢も見える。
「いってきます」
遥が言うと、リタも続けた。
「いってきます」
叔母が二人へ返す。
「いってらっしゃい」
門を出て、リタが振り返った。
家の形を、覚えている。
遥は玄関の扉が閉まるまで歩き出せなかった。叔母の手が最後まで見えている。
「……帰る道があっても、教えてね」
「さっき、言った」
「もう一回」
リタは遥を見た。それから、軽い籠を持ち上げた。
「リンゴ、ここだし。黙って行かない」




