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第3話 夜に鳴くもの

叔母から電話の返事が来るまで、遥はリタを塀のそばに待たせた。


 自分だけ少し離れ、通りに男がいないかを確かめる。

 黒い上着の人は二人いた。どちらも別人だった。一人は自転車を押し、もう一人は店の前で新聞を読んでいる。

 普通の夕方に見える。


 スマホが震えた。


「どうしたの。怪我?」


 最初にそれを聞かれて、遥は自分の肩へ触れた。制服が壁に擦れ、白っぽくなっている。


「私は平気。ちょっと、女の子を連れて帰っていい?」


「お友達?」


「さっき会った」


 電話の向こうで、水の音が止まった。


「それは連れて帰る前に話が必要ね」


「猫じゃないよ」

「猫のときも、そこから話が始まったでしょう」

 蛇口を閉めたらしい音がした。叔母は聞く姿勢になっている。遥はリタへ背を向けた。振り返れば、右手の話までしてしまいそうだった。


「駅前で迷ってた。電話も持ってなくて、住所もわからないって」


「小さい子?」


「私くらい」


「名前はわかる?」


「リタ」


 背後を見た。

 籠に垂れた布を直している。もう落ちてこないように、とでもいうように、リンゴを一つずつ押し込んでいた。顔を上げたリタと目が合う。遥は親指を立て、すぐ下ろした。通じていない。


「知らない男につけられた。交番へ行く途中だったんだけど、近くにいるかもしれないから、一度家に」


「今もついてきてる?」


「見えない」


 壁のことは、喉まで来て引っかかった。「見えない」としか言わない自分の声が、ずるく聞こえた。


 叔母が短く息を吐いた。


「わかった。家まで来て。その子が怪我をしてたら、先に手当て。事情はここで聞きましょう」


「ありがとう」


「遥。あんたもだからね」


 電話を切っても、その言葉が耳に残った。


 リタのところへ戻ると、少女はすぐ立ち上がった。


「怒られた?」


「まだ」


「あとで怒られるの?」


「たぶん、少し」


 リタが眉を下げた。


「わたしが説明する」


「いや、そこは一緒でいい」


 遥は歩き出した。

 リタが半歩後ろへつく。車道のある場所へ近づくと、足が遅くなった。


 歩道の端を指す。


「低くなってるところが境目。車が通るのは、あっち」


「ここは歩いていい?」


「うん。横に広がらなければ」


 リタは真剣にうなずいた。

 知らないことを教わるたびにそうする。からかっている様子はない。住所も電話も知らない同年代の少女が、本当にいるのだろうか。

 何を聞けばいいか考えているうちに、家が見えた。


 玄関灯がついていた。

 叔母は普段、もっと暗くなってからつける。


 鍵を出す前に、扉が開いた。


「おかえり」


 エプロンの叔母が、二人を順に見た。

 遥の肩、リタのずきん、籠。それから膝と手。


「まず、手を見せて」


 リタは籠を置いて、両手を差し出した。


「落ちたときに。もう血は止まってる」


「どこから落ちたの?」


「森の穴」


 叔母はすぐには聞き返さなかった。


「……そう。じゃあ、話は洗ってから」


 中へ促す。

 リタは靴を履いたまま、敷居の前で止まった。遥が靴を脱ぐのを見て、同じようにする。傷のある手で靴を持とうとしたので、遥が先に横へそろえた。


「籠も中でいい」


「床を汚さない?」


「下に新聞敷く」


 叔母が言う。

 リタはほっとした顔をした。


 洗面所で水を出すと、リタは蛇口をのぞいた。


「井戸は、どこ?」


「外にはない。ここから出るの」


「ずっと?」


「閉めれば止まる。ほら」


 驚いている間にも、叔母は手際よく傷を洗った。深くはない。リタが顔をしかめた時だけ少し待ち、清潔なガーゼで水気を取る。


「背中も打った?」


「うん。でも歩ける」


「歩けることと、大丈夫なことは別よ。気持ち悪くなったり、ひどく痛くなったら、すぐ言って」


 リタがうなずく。

 遥は自分にも言われた気がして、肩を動かした。


 食卓の端へ三人で座った。

 叔母は湯のみを二つ置いた。リタは飲む前に、両手で器を温めた。


「リタさん、でいい?」


「リタでいいです」


「私は遥の叔母。ここでは一緒に暮らしてるの。あなたを探してる家の人はいる?」


 リタは籠へ視線を落とした。


「おばあさんが、待ってる。リンゴを届けるって言ったから」


「連絡できる人は?」


「ここには、いない」


「ここって?」


 リタが遥を見た。


「にほん、っていうところ」


 叔母の手が湯のみの横で止まった。

 遥は少女が説明を終えるまで待った。


 森のこと。祖母の声。落ちた穴。

 灰色の壁になった出口。


 壁を開けた話は出なかった。

 リタは一度だけ遥を見て、知らない道へ逃げたと言った。


 逃げた先を聞かれて、リタは布のついた掌を握った。遥は湯のみを持ち上げた。まだ熱く、飲めなかった。


 叔母は両手を膝へ置いた。


「今すぐ帰る道は、わからないのね」


 リタがうなずいた。


「帰りたいです」


「それは一緒に考えましょう。つけてきた人のことも、放っておけない。今日あなたをもう一度あの場所へ行かせるつもりはないわ」


 遥は顔を上げた。


「泊まってもいい?」


「今日はね。明日のことは、ちゃんと話してから」


 叔母がリタを見る。


「眠る場所と、ご飯はある。それで今夜は足りる?」


 リタはすぐ答えなかった。

 湯のみの縁へ指を添え、赤いずきんを少し下ろした。


「……はい」


 遥はようやく鞄を肩から下ろした。

 底が床へつく音に、リタが小さく笑った。


「ずっと持ってたの?」


 そうだった。

 もう逃げなくていい、と考える余裕すらなかった。


 叔母が立つ。


「じゃあ、味噌汁を温め直す。二人とも手伝って」


 遥が箸を出すと、叔母は一本、多いと言った。数え直す。二本で一組の箸が、四組あった。

 余った一組を引き出しへ戻すまで、叔母は鍋に向いたまま待っていた。

 リタは籠を足元に置き、何も聞かずに椀を三つ運んだ。


     *


台所には火が見えなかった。


 それなのに、鍋から湯気が出ていた。

 リタは食卓の端へ箸を運んでから、もう一度鍋を見た。黒く平らな台の上で、汁が静かに揺れている。


「下で燃えてるの?」


「電気」


 遥が答えた。


「火は使ってない」


 リタは鍋の下をのぞこうとして、叔母に止められた。


「そこ、熱いから。確かめるなら、目だけね」


 リタは両手を背中へ隠した。遥が鍋の下を指さす。何も燃えていない。本当に、何も。

「じゃあ、冬も煙突を掃除しなくていいの?」

「この家に煙突ないよ」

「それはずるい」

 叔母が吹き出した。叱られたのかと思って顔を上げると、笑いながら椀を出していた。


 叔母は小さな器を三つ並べた。


「お箸は使える?」


「これは二本で一つ?」


 指で持とうとすると、片方が滑り落ちた。

 遥が横から拾う。


「今日はスプーンでいいよ」


「覚えたい」


「手、治ってから。痛いでしょ」


 ガーゼを巻いた掌へ目を落とした。


 スプーンを受け取る。


「ありがとう。治ったら教えて」


 遥はうなずき、空いた箸を一本持ち上げた。


「これはあとで」


 叔母が汁をよそった。

 白い小さな四角と、細い緑色のものが浮いている。鼻を近づけると、知らない匂いがした。土でも草でもない。温かい豆を思い出すような匂いだった。


「熱いから少しずつ」


 言われたとおり、スプーンでひと口すくった。

 舌に塩気が広がり、そのあとに別の味が残る。


「おいしい」


 自然に言葉が出た。


「味噌汁。具は豆腐とねぎ」


 叔母が器を指す。

 リタは名前を繰り返した。豆腐は口に入れると崩れた。匙でつぶして食べる必要がないくらい柔らかい。


 おばあさんも食べられそうだ。


 そう思ってから、喉の奥が詰まった。

 この家では、夕飯が始まっている。森の向こうでも、そろそろ鍋を火へかける時間だろうか。祖母はリンゴを待っていた。自分が来るまで、何かを作るのを待っているかもしれない。


 スプーンを置いた。


「無理に全部食べなくていいよ」


 遥が言う。


「違う。食べたい」


 リタはもう一度持ち上げた。


「おばあさんにも、食べさせたいと思ったの」


 遥は器を見た。


「帰れたら、作れば」


「作り方を覚えていい?」


 叔母がうなずいた。


「材料があるといいわね」


「豆ならある。おばあさん、豆を育ててるから」

「味噌も豆だけど、そのまま入れるのとは違うかな」

 遥が自分の椀を傾ける。リタも残った汁を飲んだ。知らない物をおいしいと思えたことが、少し申し訳なかった。祖母はまだ何も食べずに待っているかもしれない。

「明日はリンゴを届ける道から探す」

 口にしておかないと、ここで眠ってしまいそうだった。


     *


 風呂の中に川はなかった。


 蛇口から出る水は温かく、桶は木ではなく白く滑らかなものだった。

 遥に教わって髪を洗うと、知らない花の匂いがした。


「目に入れないで」


 扉の向こうから声がする。


「入ったら、どうなる?」


「痛い。水で流して」


 リタは目を閉じたままうなずいた。


 ずきんは洗わなかった。

 祖母の家の匂いを消したくなかったし、傷んだ裾を濡らすのも嫌だった。壁を通って逃げた時、布の端をどこかへ擦ったらしい。糸が一本、短く出ている。


 脱衣所へ出ると、畳んだ服があった。

 遥が貸してくれたものだ。長い袖と、足首まである柔らかい布のズボン。


「大きくない?」


 扉の外から聞かれた。


「袖だけ、少し」


「まくって。腰の紐は結べる?」


 それなら知っている。

 リタはきれいに結んだ。


 二階の小さな部屋に、寝る場所を作ってもらった。

 床へ広げられた布は厚く、上から押すと少し沈む。窓には暗い布が掛かっていた。外から見えないようにするためだと遥が言った。


 天井の白い明かりが、部屋の隅まで照らしている。


「これ、朝までついてるの?」


「消せる」


 遥が壁の四角へ指をかけた。

 小さな音と一緒に、部屋が暗くなった。


 リタは思わずずきんを抱いた。


「あ、ごめん」


 すぐ明るくなる。

 遥は壁から手を離した。


「これを押すと消える。もう一回押すとつく。それだけ」


 リタは寝床を立ち、壁へ近づいた。

 指で押す。


 夜になった。


 もう一度押す。

 夜が消えた。


「すごい」


 遥が少し笑った。


「街灯もあるから、真っ暗にはならないよ」


 明かりを消して確かめると、窓の端に細い光が残った。

 部屋の形はぼんやり見える。扉のところに遥がいて、手をまだスイッチへ置いている。


「暗いほうが眠れる?」


「森では、暗かった」


「じゃあ、消しとく?」


 リタは首を振った。

 窓の光がある。この部屋の夜は、自分の知っている夜とは違う。


「ちょっとだけ、このままでいて」


 遥は扉を離れ、床へ座った。


「明かり?」


「遥」


 暗がりで、少女の肩が動いた。


「……眠るまで?」


「話をひとつ、聞くまで」


「何の」


「ここで、夜になると何が鳴くの?」


 遥は窓を見た。

 しばらく、二人で音を聞いた。

 遠くに車のうなり。下の階で器が触れる音。家のどこかで、機械が低く鳴っている。


「鳥は、あんまり。夏なら虫が鳴く。あと、夜中に猫が喧嘩することがある」


「猫は知ってる」


 言うと、遥が笑った。

 リタは寝床へ足を入れた。ずきんを枕の横へ置く。


「猫が喧嘩したら、起こして」

「見たいの?」

「家の猫も、いつも負けるの。こっちの猫なら勝てるかもしれない」

「うちの猫じゃないんだけど」

 遥が声を立てて笑った。その声を聞いてから、リタはやっと肩の力を抜いた。


「明日は道を見に行きたい」


「叔母さんに話してからね」


 遥は扉のほうへ立った。


「私も行くから」


「おやすみ、遥」

「おやすみ」

 扉が閉まりかけたところで、廊下の床が鳴った。遥は階段へ行かず、隣の閉じた扉の前で止まっていた。

 もう一度、小さく「おやすみ」と聞こえた。

 リタはずきんの端を引き寄せた。この家は三人だと聞いた。誰が、あの部屋にいるのだろう。

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