第2話 壁の向こうの手
少女の手首をつかんだまま、遥は通りの向こうを見た。
さっきまでいた男がいない。
リタは遥の背後を見ていた。
「あそこ」
振り返ると、細い路地の奥に男が立っていた。黒い上着。空いた片手。夕方の影に溶けるような顔。
横断歩道は、ここからずっと先だ。
車の間を走ったにしても、こんなに早く回ってこられるものだろうか。
「家の人?」
リタは首を振った。
「声だけ、おばあさん」
それはどういう意味か、と聞き返す前に男が歩き出した。
籠へ手を伸ばしている。
「届けてあげるよ」
少し高い、年を取った女性の声だった。
男の口から出ているとわからなければ、優しそうだと思ったかもしれない。
「リンゴも、ずきんも。こっちへ」
リタが籠を抱き寄せる。
遥は少女の前へ半歩出た。
「知り合いじゃないなら、近づかないでください」
男は遥を見なかった。
声を大きくする。
「嫌がってます。警察を呼びますよ」
通りには人がいる。叫べば振り向く距離だ。
遥は左手でスマホを持ち、画面を起こした。知らない土地で迷った少女を交番へ連れていけば終わるはずだった。少なくとも、遥にできるのはそこまでだ。
男の足が止まる。
「道を知らない子だね」
今度は普通の男の声だった。
「君も」
遥は画面へ視線を落とした。指が滑る。さっき少女を引いた手の震えが、まだ抜けていない。
番号を押そうとして、男が口を開くのが見えた。
何かを言ったわけではなかった。
噛んだ。
空気を、と思った。
路地の入り口に、何もないのに。
乾いた音がして、遥の背後から車の音が消えた。振り向くと、灰色の壁があった。
さっきまで目の前だった歩道も、白い車の去った車道も、信号もない。両脇の建物の壁と同じ、粗い灰色が道を塞いでいた。
鞄を握った指が冷える。
「……何、これ」
リタが壁へ手をついた。
「落ちてきたところも、こうだった」
発信の印を押した。呼び出し音がない。押し直す。画面だけが、律儀に明るくなる。
「誰か! ここにいます!」
壁を叩いた。向こうにいた人たちは、どうして振り返らない。
リタも隣で叫んでいた。掌の擦り傷が灰色の壁へつく。それを見て遥は腕を下ろさせた。自分の声まで小さくなった。
男は歩いてくる。
急がない。こちらに出口がないと知っている歩き方だった。
遥はリタの手を引いた。
「奥、行こう」
男の横を抜けられれば、と考えた。しかし路地は二人が並べる程度の幅しかない。リタの籠がある。自分の鞄もある。
男が手を伸ばした。
籠の持ち手をつかみかけ、リタが身をひねる。リンゴがぶつかる音がした。
「それはおばあさんの!」
遥は鞄を男の腕へ押しつけた。硬い教科書の角が当たり、手が引っ込む。できた隙間へリタを先に通し、自分も体をねじった。
肩が壁に擦れた。
走る。
路地の奥には確か細い曲がり角がある。昔、駅からの近道だと思って通ったことがあった。
曲がれば、青い屋根の駐車場へ出る。
出るはずだった。
角を曲がっても、壁だった。
遥は立ち止まった。息だけが体から出ていく。壁の下に古い瓶が転がっている。その瓶の形を、覚えていた。
これはさっきの入り口の隅にあった瓶だ。
戻ってきた。
男が向こうから歩いてきた。
「急がなくていい」
女の声で言う。
「帰る道は、私が知っている」
遥は唇を噛んだ。
息を整えるふりをして時間を稼いだ。リタは次に走る方向を探している。壁の瓶を見れば、どちらへ行っても同じだとわかるのに。
言わずに済ませたかった。出口は、もう自分の手の中にしかない。
右手を、鞄の肩ひもから離す。
家の角なら、目を閉じても立てる。左の靴の縁が排水溝にかかる、あの場所なら。
その考えが浮かんだ途端、胃の底が冷えた。
もう使わないと決めた手だった。
爪を立てても忘れられなかった感触が、掌へ戻ってくる。離れていく小さな手。名前を呼んだ自分の声。声より先に閉じた、あの隙間。
右手を握り込んだ。
「遥?」
リタが顔をのぞいた。
赤い布の下の目が、まっすぐこちらを見ている。
「手、痛いの?」
「……少し」
手を隠すと、リタは自分の擦りむいた掌を見せた。
「わたしも。だから、籠は片方で持つ」
言って、遥の左手を取った。走るならこの手で、ということらしい。
小さな手が離れたあの日、遥は右手を壁から離せなかった。今なら、まだ間に合う。今、横にいるこの子なら。
「もう、走らない」
リタが顔を上げた。
遥は閉じた壁へ目を戻した。
青い屋根の駐車場ではない。遠い駅でもない。もっと近く、自分が毎日確かめている場所を。
家の前の、細い道。
夕方には物干し台の影が落ちる、あの角。
もう一度、そこを思い浮かべた。
「リタ。今から言うこと、聞いて」
握った右手を開く。
「私が手を離しても、ここにいて」
*
壁へ触れるまでに、遥は一度、手を引っ込めた。
リタには、石の冷たさに驚いたように見えた。
けれど遥は、壁を見る前から震えていた。
「目を閉じたほうがいい?」
リタが聞くと、遥は首を振った。
「開けてて。出口が見えたら、すぐ入って」
「出口?」
壁の向こうに道があるのだろうか。
ここまで来た時、遥は角を曲がれば駐車場へ出ると言った。今はその道すら塞がれている。
男が近づいてきた。
籠を抱き直す。傷ついた手のひらに持ち手が当たった。
遥が右手を壁へ置く。爪の先から細い線が走った。
最初はひびだと思った。
灰色の表面へ黒い線が伸び、横へ曲がり、下りてくる。細長い四角ができた。人が一人、通れるくらいの大きさだった。
線の内側が、向こうへ退いた。
扉のようには回らない。
ただ壁の一部が、そこにはなかったことになる。
風が来た。
石の間に閉じ込められていた空気とは違う、夕方の冷たい風だった。
向こうには、道があった。
低い塀、白い植木鉢、赤い小さな花。細い影が地面へ斜めに落ちている。空は路地から見たものよりずっと広かった。
「行って」
遥が言った。リタは一歩出て、それから遥を見た。
「一緒に」
「あとから行くから」
壁へ置いた右手が離れない。
リタは穴の縁を見た。石の厚みも、その裏側も見えなかった。ここから、向こうへ。間がない。
男の足音が早くなった。
「その道は、誰のものだい」
今度の声はリタの知らないものだった。
遥が振り向く。顔が青かった。
リタは籠を向こうへ押し出した。
穴を通り、植木鉢の脇へ置く。振り返って遥の空いた左手をつかんだ。
「わたし、向こうにいるから」
男の影が遥の肩へ届いた。
リタは手を引いた。
遥の靴が敷居のない境目をまたぎ、鞄が端に当たる。リタは横へ寄って通す場所を作った。
壁の線が細くなる。
黒い上着の袖が、穴へ入ってきた。
長い指が赤いずきんへ伸びる。
遥は左腕でリタを押しやり、右手をこちらへ引いた。
穴が閉じた。
歯を噛み合わせる音がした。
壁の向こうで。
リタはずきんへ触れた。まだ、そこにある。袖も指も、壁を抜けてこなかった。
籠を取ろうとしゃがんだ時、遥が塀へもたれて座り込んだ。
「遥」
リタは隣へしゃがんだ。
「大丈夫?」
遥は答えず、通ってきた壁を見ていた。右手の指を一本ずつ動かし、左手で握る。それから、ゆっくり息を吐いた。
「……ついてきてない?」
「いない」
「五つ、ある?」
リタは籠を見る。
「リンゴ? あるよ」
「なら、よかった」
そう言って、遥は顔を膝へ伏せた。
籠から一つ出して、渡しかけた。傷のないほうがいいと思い直す。けれど、これを渡したら四つになってしまう。
リタはリンゴを戻し、代わりに籠の底の布で遥の膝の土を払った。
「今、何か食べる?」
「……食べる顔に見える?」
「顔が白いから」
遥は笑おうとして、うまく笑えなかった。リタは横に座り直した。遠くで猫が塀へ飛び上がる。あの猫は壁を開かなくても帰れるのだろう。
遥が顔を上げた。
「誰にも言わないで」
リタはうなずいた。
「助けてくれたこと?」
「壁のこと」
「どうして?」
聞くと、遥は口を閉じた。
右手はまだ左手の中にあった。
「……今は、聞かないで」
リタは膝の上へ自分の手を置いた。
「わかった。ありがとう」
ようやく言えた。
遥は少し目を伏せた。
「たまたま、ここを知ってたから」
「知ってる場所なら、道を開けるの?」
遥はためらってから、うなずいた。
「この塀の前なら、暗くても立てるから。ほかは……うまく説明できない」
リタは壁へ目を向けた。
祖母の台所を思い浮かべる。広い机。木の椅子。窓辺に置いた、欠けた茶碗の植木鉢。
いくつも覚えている。
「わたしは、おばあさんの家を覚えてる」
「私が知らないと、できない」
「わたしが教えたら?」
「写真でも、地図でも、無理だった」
遥はそう言って、リタを見た。
「知らない森には行けない」
リタは籠の縁をなぞった。
さっき穴ができた瞬間、すぐ帰れると思ったのだ。
祖母の家の壁にも、こんな道が開く。自分は籠を持って向こうへ出て、遅くなってごめんなさいと言う。それで今日は終わる。
「台所を描ける。机も、戸も、全部」
「ごめん。描いてもらっても……」
遥は右手を膝の下へ隠した。断ることまで痛そうだった。
リタは口を閉じた。籠はここにある。まだ、届ける前だった。
「……ここ、どこなの」
遥は低い塀の向こうを指した。
「うちの近く」
「うちじゃなくて。森がなくて、馬のいない車が走って、夜でも窓が光るところ」
遥がこちらを見る。
「日本」
「にほん」
「知らない?」
首を振った。
祖母の話には出てこなかった。村の外の遠い国の名前も、いくつかは聞いた。けれど、日本という国は知らない。
遥はスマホを取り出した。
今度は画面が動いた。何かを押すと小さな音がして、遥の肩が少し下がる。
「ここからなら、電話はできる」
リタは壁を見た。
あの男のいる道と、ここは違う。祖母の家とここも違う。
自分には、どちらへの帰り道もわからない。
「誰かに、わたしのことを話す?」
「家の人に。すぐ交番に戻るのは……あいつ、いるかもしれないし」
遥が立ち上がる。
膝についた埃を払って、リタへ手を差し出した。
「一回、うち来る?」
リタはその手を見た。
道を開いた右手だった。
今は震えていなかった。
「お邪魔していいの?」
「聞いてみる。たぶん、怒られるけど」
遥の掌へ、自分の手を載せた。さっき壁を抜けたときとは反対の手だった。
「そのときは、わたしも怒られる」
「そういうの、半分にはならないよ」
遥はようやく笑い、リタの籠を一度見てから歩き出した。




