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第1話 リンゴは五つ

穴に落ちたとき、リタは自分の頭よりリンゴの籠を守った。


 背中より先に、腕の中で実がぶつかる音を聞いた。五つ。落としてはいけない。届ける前から傷だらけにしたら、おばあさんに何と言おう。


 腕の中で籠が跳ねる。ひとつ飛び出した赤い実を、とっさに胸で押さえた。代わりに、ずきんの裾がどこかへ引っかかった。

 首が後ろへ引かれる。


 ぷつん。


 耳元で、小さな音がした。


 首が楽になった。よかった、と思ったのは一瞬だった。今度はどこにもつかまるものがなかった。


     *


 その朝、籠の中のリンゴは六つあった。


「ひとつは道で食べていいからね」


 そう言われて家を出たのに、森の入り口まで来ても六つのままだった。リタは木陰の石に腰を下ろし、いちばん小さい実を選んだ。

 袖で磨くと、赤い皮に窓のような光ができた。


 かじる。

 薄い皮が割れ、甘い汁が舌に広がった。


 おばあさんは、大きいものより小さいリンゴのほうが味が濃いと言う。ならば小さいのを届けたほうがよかったかもしれない。

 しかし、もう歯形がついている。


「これはわたしの分」


 誰にともなく言い訳して、もうひと口食べた。


 祖母の家までは、森を抜けて、川沿いを歩き、白い石のところで坂へ入る。急がなくても昼には着く。

 届けるだけでは帰してもらえないだろう。お茶を飲んで、屋根の上にまた鳥が巣を作った話を聞いて、帰りには空いた籠へ何かを詰められる。

 前は豆だった。

 行きより帰りのほうが重かった。


 今日は何だろう。そう考えながら芯を葉で包み、籠の隅に入れた。

 捨てるなら土へ、と祖母は言う。けれど道の真ん中に置けば、誰かが踏む。あとで家の堆肥に混ぜればいい。


 赤いずきんをかぶり直して立つ。


 顎の下の結び目を締め直した。襟の繕い跡を指でなぞると、ほかより少し固い。

 祖母にもらったずきんは、リタには長い。後ろの裾が籠へ触れることもある。それでも切ってもらおうとは思わなかった。

 祖母の家と同じ、干した布の匂いがするからだ。


 森は、いつもどおりだった。


 根が盛り上がっている場所をまたぎ、雨のあとも水が残るくぼみをよける。折れた木には、去年から苔が増えている。そこを過ぎれば、川の音が聞こえるはずだった。


 今日は聞こえなかった。


 足を止める。

 風もなかった。葉は高いところで重なったまま、動こうとしない。


「リタ」


 左から、声がした。


 祖母の声だった。


「こっちへおいで」


 木々の間を見ても、誰もいない。

 祖母は坂の上の家にいる。膝が痛むと言っていたから、今日は自分が届けることになった。それなのに、どうして森にいるのだろう。


「おばあさん?」


「そうだよ。こっちの道が近いから」


 リタは籠の持ち手を握り直した。

 いつもの道から左へ、細い踏み跡が伸びている。二本の木が門のように立ち、その先だけ明るかった。

 見覚えのない道だ。


「迎えに来たの? 足は大丈夫?」


 返事は少し遅れた。


「大丈夫。早くおいで」


 リタは一歩、踏み跡へ入った。


 声のするほうで、土を踏む音がしなかった。

 リタは踏み出した足を戻そうとした。


 立ち止まって、もう一度木々の奥を見る。


「リンゴを持ってきたよ。五つ。ひとつは食べていいって言われたから」


「早く」


 籠へ、冷たい指が触れたような気がした。

 リタは抱き寄せた。葉のこすれる音もないのに、ずきんの裾が後ろへ引かれている。


 帰ろう。

 いつもの道に戻って、家まで行こう。

 そう決めて振り向いたとき、踏んでいた土が沈んだ。


 転んだ、と思った。

 膝をつけば止まるはずだった。


 膝の下に地面がなかった。


 草も、土も、木の根も、足元から遠ざかる。籠を胸へ抱き、空いた手で伸ばした指が枝をかすめた。

 ずきんだけが引っかかった。


 首が詰まる。


 暗がりに、白いものが並んでいた。

 石ではなかった。

 一本ずつ先がとがり、ふたつの列が、ゆっくり近づいてくる。


 歯。


 リタのずきんから細い赤い糸が伸びて、その歯の間に挟まっていた。


 ぷつん、と切れた。


     *


 背中を、硬い地面に打った。


 息が出て、それから入ってこない。

 籠はまだ腕の中にある。持ち手が肘へ食い込み、リンゴが胸を押していた。


 しばらく、そのまま動けなかった。


 最初に気づいたのは、匂いだった。

 土でも草でもない。雨に濡れた石に似ているが、もっと苦く、温かい。

 次に、音。

 低いうなりが近づき、遠ざかる。また別のうなりが来る。どこかで金属が鳴り、人が笑った。


 人がいる。


 助けを呼ぼうとして、リタは咳き込んだ。

 ようやく息を吸い、身を起こす。籠を膝へ置き、リンゴを数えた。


 一、二、三、四、五。


 五つあった。

 一つの皮に小さな傷がある。親指でなぞると、汁がにじんだ。


 祖母に謝ろう。落としてしまった、と。

 でも五つともあるのだから、煮れば食べられるかもしれない。


 そう考えて顔を上げた。


 森がなかった。


 左右を高い灰色の壁に挟まれ、頭の上には細長い空が見える。木の枝の代わりに黒い線が何本も渡っていた。

 足元から壁まで、ひと続きの硬い地面だった。


 リタは後ろを向いた。


 穴もなかった。


 手をついて起き上がり、落ちてきたはずの場所を見た。灰色の壁に指を当てる。冷たい。押しても、叩いても、何も起きない。


「おばあさん」


 返事はなかった。


 路地の向こうで、四角い光が一斉にともる。

 まだ日が沈みきっていないのに、星よりずっと明るかった。


 明かりのついた窓を一つずつ見た。あの奥に台所があって、鍋がかかっていて、おばあさんが待っていればいい。

 どの窓にも手が届かなかった。

 傷のついたリンゴから汁がにじみ、リタの袖を濡らしていた。


     *


路地を出る前に、リタは自分の足を調べた。


 靴は両方ある。膝も曲がる。手のひらには擦り傷がついたが、血はもう止まりかけていた。

 籠を持てるなら、歩ける。


 歩けば、誰かに会える。


 そう考えていたのに、出口から顔を出すと、今度は一歩も動けなくなった。


 人が多すぎた。


 同じほうへ歩く人。反対から来る人。黒い板を顔の前に持ったまま歩く人。誰も、リタが落ちてきた穴について話していない。

 横を通った女性が、赤いずきんを見てから、その下の顔を見る。

 リタは口を開いた。


「あの」


 女性は耳に手を当てた。


「うん、今そっち行ってる」


「わたしは、そっちがどこか」


 女性はそのまま行ってしまった。

 リタへの返事ではなかったらしい。


 遠ざかる背中を見ていると、大きな箱がうなりながら目の前を通った。つやつやした側面に自分の赤い姿が一瞬映る。馬がいないのに、車輪は回っていた。


 森の外では、こういうものが走るのだろうか。


 リタは籠を片腕へ寄せた。知っているものを探す。

 壁。窓。扉。人。犬。

 犬は小さく、服を着せられていた。主人らしい老人へ、忙しく鼻を向けている。


 リタがしゃがむと、犬は近づいて鼻を鳴らした。鼻は冷たい。そこは知っている犬と同じだった。

「森へ行く道、知らない?」

 犬は籠の匂いを嗅いだ。老人が紐を引いて「ごめんね、食いしん坊で」と笑う。聞き直すより先に、二人は人の流れへ消えた。

 誰に聞いても、皆どこかへ急いでいる。行く場所があることが、こんなに羨ましいとは知らなかった。


 次に来たのは、リタと同じくらいの年の少女だった。

 紺色の服に、白い襟。片方の肩へ四角い鞄を掛けている。髪が頬へかかっても直さず、何か考えながら歩いていた。


「あの。ここはどこですか」


 少女が立ち止まった。

 まず籠を、次にずきんを見た。


「駅前だけど」


「えきまえ」


「駅、そこ。迷子?」


 指の先に、とても大きな建物があった。扉がいくつもあり、人が吸い込まれたり出てきたりしている。

 駅というものが家の名前なら、おばあさんの家は別の方向だ。


「森へ帰りたいの。川のそばの道があって、白い石から坂を上がると、おばあさんの家に着く」


「どこの森?」


 リタは答えに詰まった。

 森は森だった。

 家のそばにあるから、近くの森。川へ行くときに通るから、川の森。よその森との区別が必要になるほど遠くへ行ったことはなかった。


「名前は、知らない」


 少女は少し眉を寄せた。


「スマホある?」


「すまほ?」


「電話。家の人に連絡できるもの」


 家の人に。

 そう言われると、喉の奥が急に狭くなった。


「ない」


「じゃあ、住所は」


「じゅうしょも、ない」


 少女の眉が、質問のたびに寄っていく。

「でも、家はあるの」

 リタは急いで付け足した。

「リンゴを届けたら、ちゃんと帰る。わたし、ひとりで行けるから」

「うん。まず、どこに帰るか教えて」

 そのどこが言えない。籠を持ち上げてみても、少女は中身よりリタの顔を見ていた。


「名前は?」


「リタ」


 これは答えられた。

 少し胸を張ると、少女はうなずいた。


「私は遥。みちせ、はるか」


「みちせはるか」


「遥だけでいい」


 遥は鞄から薄い板を取り出した。

 女性たちが見ていた黒い板に似ていたが、指を触れると中に光がともった。

 リタは思わず顔を近づけた。


 小さな箱の中に、道があった。

 青い点と、幾本もの線。動く地図だ。


「この辺に森はないから。とりあえず交番で――」


 遥が言いかけて、顔を上げた。


 リタも、同じほうを見た。


 通りの向こう側に男が立っている。

 細い黒い上着を着て、こちらを見ていた。片手を上げたので、リタは後ろを振り向いた。ほかの誰かを呼んでいるのかもしれない。


 誰もいない。


「知り合い?」


 遥が聞いた。男の口が動いた。

 大きな箱が一台、その前を通った。姿が隠れて、また見える。


「リタ」


 声だけは、箱の音よりはっきり届いた。


 祖母の声だった。


 リタは籠を強く抱いた。

 男は少し首を傾ける。顔も背丈も、祖母とは似ていない。それなのに、もう一度呼ばれると、坂の上の台所が浮かんだ。


「こっちへおいで」


 リタは足を踏み出した。

 硬い地面が低くなる。縁を一つ越えれば向こう側まで行けるはずだった。


 耳を裂くような音がした。


 左から白い箱が迫っていた。二つの光がこちらを向き、車輪が甲高く鳴る。

 リタが籠を持ち替えるより先に、手首をつかまれた。


 強く、後ろへ。


 体が引かれて、遥の肩へぶつかる。白い箱が、つま先のあった場所を通り過ぎた。

 風がずきんをめくった。


「そっちは車道!」


 遥の声が、すぐ耳元で響いた。


 手首が痛いほどつかまれていた。離して、と言いかけ、指の震えに気づく。

 遥はリタを引き寄せたまま、車が去った場所を見ていた。もう誰もそこにいないのに、つかむ力はなかなか緩まなかった。


「急に出たら、轢かれるから」


「ひかれるって」


「死ぬってこと」


 リタは白い箱の去ったほうを見た。

 白い箱は、こちらを一度も振り返らず走っていった。御者のいない馬車だと思っていた。それに足を踏まれる寸前だったと、遅れてわかった。


「……ごめんなさい」


 遥の手から少し力が抜けた。


「こっち見て。どこか痛い?」


 リタは首を振った。


「さっきの人は」


「あとで。まず安全なところ」


 でも、男はもう通りの向こうにはいなかった。


 リタは遥の肩越しに、路地の奥を見た。

 灰色の壁の手前に、黒い上着が見えた。


 男は先回りしていた。

 こちらへ向けて、片手を差し出している。


 その目はリタの顔を見ていなかった。


 赤いずきんを、見ていた。

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