第38話 家の卵
リタを送った日の夕飯は、三人分だった。
遥は四枚目の皿を探して、手を止めた。
紬が卵へ箸を伸ばす。好きだった半熟の方を寄せると、少し迷ってから、よく焼けた白身を取った。
「今はこっちがいい」
遥は半熟の方を自分の皿へ戻した。
*
翌朝、紬の部屋の前で止まると、戸を叩く前に声がした。
「起きてる」
「おはよう」
返事があることに、まだ慣れていなかった。
紬も、戸を開けて一度廊下を見た。叔母に呼ばれるまで、敷居のそばに立っていた。
話を聞かれる日が何度もあった。
紬は自分で答えた。遥が続きを言おうとすると、先に口を開くこともあった。
知らない人と食べた物。水を汲みに行く道。開けないことにした戸。
遥は口を閉じて聞いた。
帰り道に、紬が尋ねた。
「お姉ちゃんには、前に書いたよね」
「うん。でも今日のは知らなかった」
紬は少し考えて、また続きを話した。
家の角まで来たところで、遥が呼び止めた。
「あの時のこと、怒ってる?」
「どの時?」
「手、離した時」
紬は歩くのをやめた。
「怒ってた」
遥は頷いた。
「ごめん」
「でも、離したことだけじゃない」
紬は鞄の持ち手を直した。
「一人で決めて、一人で助けに来ようとしたことも」
「うん」
「今も少し怒ってる」
「じゃあ、待つ」
先に歩き出した紬へ、遥は追いついた。横へ並んでも、謝り直さなかった。
*
右腕は少しずつ動くようになった。
けれど学校の階段では、しばらく手すりを使った。教室の戸までが妙に遠い日もあり、近づいてから、いつもの距離だと分かった。
壁を開ける用事はなかった。
紬がまた学校へ行くための相談は、叔母と進めた。遥だけ先に制服を着て出る朝にも、食卓から声がした。
「いってらっしゃい」
玄関の赤い端は、戸を開ける風で少し動いた。
*
飯田さんは自分の家へ帰れた。
鍵入れも受け取ったと、後で見せてくれた。白い修繕はそのままだった。
「娘に怒られたよ。縫い目をからかってる場合かって」
遥は笑った。
地上と地下の修理店にも、紬と礼を言いに行った。椅子は元の場所へ戻り、作業台には靴が並んでいた。
まことが家族に会えたと聞いた。缶を持ち帰ったかどうかまでは、分からなかった。
*
帰りに路地へ寄った。
土は細くなっていた。灰色の壁のそばに、木の根の影が見える。蓋に結んだ糸は残っていた。
遥は引かなかった。
リタが祖母の家に着いたか、まだ知らない。
「長くなるかな」
紬が聞いた。
「分からない」
根の向こうへ声をかけようとして、遥はやめた。聞こえなければ、何度も呼びたくなるだろう。
紬が鞄の端をつかんだ。
「帰ろう。卵、固く焼いてほしい」
「自分で焼けば」
「一緒に」
遥は路地を出た。
*
夜、布団へ入ってから廊下へ耳を澄ませた。
紙を動かす音がしている。
「おやすみ」
少し遅れて返事があった。
遥は目を閉じた。その後は、呼ばなかった。




