第37話 四つのリンゴ
鳥はリタを呼ばなかった。
頭の上で羽を鳴らし、別の枝へ移っただけだった。
リタはその行き先を見ていた。葉を踏むたび、床が動くのを待ってしまう。しばらくしてから、また歩き始めた。
白い石を回ると、屋根が見えた。
さっきはなかった煙が、細く上がっていた。
足が速くなり、枝に籠をぶつけた。中を確かめると、四つともあった。
戸の横には低い椅子が置かれている。座面に畳んだ布。祖母が外で縫い物をする時の椅子だった。
リタは戸を二度叩いた。
内側で椅子が鳴った。
足音が近づいてくる。
*
祖母はリタを見て動かなくなった。
髪を留める布がずれている。袖に細い糸がついていた。
「わたし」
名前を言う前に、祖母が一歩出た。
「リタ」
頬へ手が来た。
温かかった。リタは目を閉じ、すぐ開いた。顔を見ていたかった。
「道が戻った」
そう言うと、祖母はリタの頭から肩へ目を移した。
「ずきん、ほとんど糸にした」
リタは袋を開いた。
切れ糸と白い布。紙に包んだ鋏。残せたものは、それだけだった。
「最後の一本は、根に結んだ。向こうの端と」
祖母は覗き込み、頷いた。
棚には古い布と、何枚もの紙が散らばっている。描かれた根の形は、リタの渡ってきたものとは違っていた。
「探してたの?」
「ああ」
祖母は棚へ伸ばしかけた手を戻し、リタの髪を撫でた。
*
「リンゴ、四つになった」
籠を差し出した。
持ち手を取る祖母の手が、少し震えていた。
「一つは道で食べた。傷んだのは、向こうの家で煮た」
「残りを持ってきてくれたんだね」
リタの指が離れた。
四つの実が、祖母の腕の中へ移った。
戸を開けてもらい、靴の土を落とした。いつもの敷居に、見慣れない靴底の跡がつく。
「服も、借りたの」
「話を聞かないとね」
リタは頷いた。
椅子へ座って両手を見る。窓の光で、指の溝が細く浮いた。
「遅くなって、ごめんなさい」
祖母はリンゴを机に置いた。
「まず、手を見せて」
差し出すと、そのまま立たされた。
腕が背中へ回る。リタの頭が祖母の肩へついた。
ずきんがないので、髪が頬へ当たった。祖母は避けなかった。
「よく帰ってきた」
リタは息を吸おうとした。
全部、順番に話すつもりだった。穴のこと。知らない町のこと。家へ入れてくれた女の子のこと。
今は最初の名前が出なかった。
「帰りたかった」
やっと言うと、祖母の腕が強くなった。
リタはもう一度、同じことを言った。
*
「どうして教えてくれなかったの」
座り直す前に、問いが出た。
「道のことも、戸の印も」
祖母は目を伏せた。
「知らなければ、遠くへ行かずに済むと思った」
「知らなくても、落ちたよ」
「そうだね」
祖母の指にも古い傷がある。
「それ、どうしたの」
リタが尋ねると、祖母は自分の手を見た。
「糸を離せなかった時があってね」
「いつ?」
「おまえが生まれるより前だよ。向こうにいた人を引こうとして、切るのが遅れた」
「帰れた?」
祖母は少し黙った。
「私はね」
リタはその先を聞きかけた。
祖母が傷の上へ親指を置く。
「あれは自分で道を作れないんだと思うよ」
「どうして?」
「人が歩いた後ばかり追うからさ」
「おばあさんも、会ったの?」
「ああ」
「同じ狼?」
「それは分からない」
祖母は椅子を引いた。
「まず、おまえの話を聞かせて」
*
リンゴを煮ながら話した。
遥という子が壁を開いたこと。最初は名前も知らなかったこと。妹を捜していたこと。
紬は紙で返事をくれた。まことは豆を嫌がった。叔母は止めても続けた二人をまだ怒っていた。
祖母は時々、同じ名前を聞き直した。
「紬も帰った。ほかの人も。わたしを入れて十人」
「最後は、誰の手を取ったの?」
「遥」
リタは右手を見た。
「一度、離してもらった。切るために」
祖母の混ぜる匙が止まった。
「また取ってくれた」
鍋の底で小さく泡が上がった。
*
「この前、帰ればよかったと思った?」
祖母が聞いた。リタは頷いた。
「思った時もある」
「そうかい」
「でも、帰らなくてよかったと思う時もある」
祖母は鍋へ匙を戻した。
「どっちも、あるんだね」
リタは膝を寄せた。今はそれでよかった。
狼が祖母の声を使った話もした。届け物は着いていると、傷のないリンゴを見せてきた。
「本物は、冷たい箱に置いてたから」
「冷たい箱?」
リタは手で四角を描いた。中に灯りがあって、食べ物を入れるのだ。
祖母はすぐには分からなかった。氷を入れるのかと聞かれ、リタは首を振った。それ以上聞かれても、仕組みは知らなかった。
説明しているうちに、リンゴが柔らかくなった。
*
器に分けてもらうと、向こうの家で食べたものより少し酸っぱかった。
リタは冷ましてから口へ入れた。
「また行きたい」
言うと、祖母は袋の切れ糸を見た。
「根に残した方を、見てみようか」
「明日?」
「今日はもう、休んでから」
リタは頷いた。
空になった籠を、祖母が洗った。戸のそばへ伏せると、濡れた持ち手に光が当たった。
リタは器を机へ置いた。
「ただいま」
戸口では言えなかった。
祖母が手を拭いて、振り返った。
「おかえり」




