第33話 手を取る
切れた赤が、狼の口へ引かれた。
同時にリタの足元がなくなった。
落ちると思った。
左手を誰かがつかんだ。
「リタ!」
遥だった。
右手は壁。
左手はリタ。
紬が遥の腰へ腕を回した。
叔母がその紬を支える。
リタの靴が四角の縁へ当たった。
「上げて」
紬が言う。
「分かってる」
遥の声が震えた。
リタは空いた手を縁へかけた。
後ろで狼が噛み直す。
四角が細くなる。
リタの肩が引っかかった。
「手、離さないで」
誰が言ったのか分からなかった。
「離さない」
遥が答えた。
リタは白いタイルへ膝をついた。
叔母の手が服をつかむ。
紬も引く。
最後に靴が抜けた。
四角の向こうで、狼の歯だけが残った。
*
遥は壁から右手を離せなかった。
閉じればいい。
そう思うのに、縁を噛まれている。
狼の口の奥に、いくつもの床が見えた。
濡れた石。
木の板。
土のついた根。
知らない家の敷居。
食べたものを、まだ持っている。
リタが立ち上がった。ずきんの残りは袋の中にある。
切った糸は狼の側。
新しい道は、もう続いていない。
狼が顎を引いた。
何かを探すように、もう一度口を開く。
けれど白いタイルのこちらには、リタの道がない。
遥が開いた四角だけだった。
狼の歯が滑った。
縁から外れる。
「今」
紬が言った。遥は右手を離した。
四角が閉じた。
*
案内板の下で、灰色のものが膨らんだ。
男の形には戻らなかった。
口だけが床の近くにある。
リタは叔母の前へ出ようとした。
遥が袖をつかんだ。
狼は近づかなかった。
顎が一度開く。
口の奥にあったものが、ひとつ落ちた。
木の板。
次に濡れた石。
土のついた根。
どれも床へ触れた瞬間、別々の方向へ滑って消える。
赤い糸も一本落ちた。
狼は拾わなかった。
灰色の体が床の継ぎ目へ細く沈んでいく。
最後まで残った口が閉じた。
誰も追わなかった。
*
救急の人が来るまで、白いタイルの上に座った。
叔母が人数を数えている。
リタは数えなかった。
紬が隣にいる。
遥もいる。
まことは佐伯さんの袖を握っていた。空き缶も持っている。
飯田さんは足を伸ばして壁にもたれていた。
遥が左手を開いた。
赤い糸の跡が掌についている。
「痛い?」
リタが聞いた。
「少し」
「わたしも」
リタも手を開いた。
糸の溝が赤く残っていた。
紬が二人の手を見た。
「帰れたね」
リタはすぐには頷かなかった。
白い壁には、もう四角がない。
「うん」
少ししてから答えた。




