第30話 交換しない
「交換はしない」
案内板の横に立つ男へ、遥は言った。
男は笑った。声だけが幼くなる。
「お姉ちゃん」
遥の左手が袖の赤へ動いた。
握り込まずに離す。
「その声で呼ばないで」
リタは袋からずきんを出した。残った丸い所を見せると、男の鼻がそちらへ向いた。
糸の端は、後ろの白いタイルに置かれた低い台へ結んである。
「帰りたいんだろう」
「うん」
「なら、よこせ」
「布が欲しいんじゃないの」
男は笑った。
「布だけで道ができるなら、とっくに取っている」
リタは赤を袋へ戻した。
「わたしが歩かないと、だめなんだ」
男は答えなかった。
遥が壁へ右手を置く。
白いタイルの中に四角が開いた。
黄色い線。膨れた板。低い鉄の柵。
遥が知っているのは、そこまでだった。
男の顎が横から滑り込む。
歯が四角の縁を挟んだ。
閉じようとした壁が止まる。
「リタ」
遥の左手が前にあった。
取れば、今なら戻れる。
リタはその手を一度見た。
それから黄色い線へ足を置いた。
*
鉄の柵には、前に切った赤い端が残っていた。
リタはその横へ新しい糸を結んだ。
ここが帰る場所になる。
後ろで狼が噛み直した。
床が持ち上がる。
遥の四角が細くなり、叔母の肩が半分隠れた。
「下がって!」
遥の声が来る。
リタは柵の陰へ入った。
狼の歯は、まだ四角を離さない。
けれど、まだ誰も踏んでいない木の廊下へは口を伸ばさなかった。
噛むのは、リタが来た方ばかりだった。
リタは袋を押さえた。
横の階段は、そのままだった。
壁がまた開く。
遥の顔が見えた。
「そこまでしか、出せない」
「分かってる」
遥が左手を伸ばした。
リタの指が触れる。
引けば帰れる。
「紬の所へ行く」
手を離した。
「ここへ戻る。見つからなくても、戻る」
遥は頷いた。
リタは赤い糸を置きながら、木の廊下へ入った。




