第26話 今日はやめてもいい
夕飯の後、リタは帰る荷物をまとめた。
道はなかった。見つかった時にすぐ持てるように、籠の布を入れ替え、切れた糸を巻いた。
遥が食卓へ来て、足を止めた。
「今、出ていくんじゃないよ」
リタが言うと、遥は向かいに座った。
リンゴを四つ並べる。浅い傷のある一つを、遥が見ていた。
「これ、煮ると甘いの」
リタは籠へ入れかけ、やめた。まだ冷蔵庫へ戻しておいた方がいい。
叔母の電話が鳴ったのは、その時だった。
警察からだった。リタが落ちてきた路地に、土が出ているという。
*
路地の入口には、人が立っていた。
土があった。工事で掘り返した土ではない。コンクリートが途中で終わり、その先に腐った葉と根が続いていた。
リタは立ち止まった。
湿った葉の匂いがする。
最初の日に探して、見つからなかった道だった。
道の向こうを見ようとして膝を曲げると、根の先が見えた。雨の時だけ水が溜まる窪み。その脇へ足を置けば靴が濡れない。
体が、そこを歩こうとした。
「帰れる?」
遥が聞いた。リタはすぐには答えなかった。布の端をほどき、自分たちが来た路地に糸を置いた。
「こっちは、残ってる」
糸は遥の靴のそばへ続いた。森の方には伸びていない。
道は目の前にあった。赤い線に教えてもらう必要がないくらい、知っていた。
土の向こうで枝が揺れた。
「リタ」
祖母がいた。
声だけではなかった。左手を低い枝につき、片足をかばって立っていた。家からここまで来たのかと思うと、リタは怒ることまで忘れてしまった。
「脚、悪いのに」
「あなたこそ、靴が泥だらけだよ」
祖母の目がずきんへ動き、そのままリタの顔へ戻った。
リタは籠を持ち上げた。
「四つある」
急いで家を出る時に、遥が包んで入れてくれた四つだった。
「持ってこられたんだね」
祖母の後ろには、白い石が見えていた。家の屋根は木で隠れている。
リタは右足を出しかけた。
路地の土が、かすかに縮んだ。
*
「ずっと開いてる?」
遥が聞いた。祖母は土の端を見た。
「分からない。今朝、川の道が戻った。ここも同じだと思って来たんだよ」
誰も、いつ閉じるとは言わなかった。
リタは遥の右手を見た。
「一緒に来られる?」
遥は森の地面を見ていた。
「行ったら、戻る方は……」
言いかけて止まった。祖母は枝につかまったままだ。リタが帰るまで、ここを離れないだろう。
遥は首を振った。
「紬を置いて行けない」
「うん」
リタも、それは知っていた。
ここから祖母の家へ着くまで、糸を残せばどうだろう。途中で布がなくなったら。帰ってきた時、路地がもうなかったら。
祖母を見た。
「ここから、狼の取った家へ行ける?」
「今はあの戸が見つからない」
祖母は答えた。
リタは籠の中へ手を入れた。紬の紙を写したものがある。遥が一行ずつ写し、リタが横で読んだ。
帰ったら、これを見せるつもりだった。
「紙は持ってる」
リタが言うと、遥は頷いた。
「うん。お願い」
頼まれたら歩けると思った。でも、足は出なかった。
土がまた少し縮んだ。さっきまでコンクリートへ触れていた葉が、向こうへ引かれていく。
遥は籠を持ち直そうとしたリタの腕へ手を出し、途中で止めた。
「帰っていい」
リタは顔を上げた。
「帰りたかったんでしょう」
遥は笑おうとしていた。
リタは今さらそんな顔をしないでほしいと思った。さっき部屋で腹を立てたことまで、なくなるようで嫌だった。
*
「今日はやめてもいい?」
リタの声が出た。
祖母の手が枝を握った。
「帰りたくないのかい」
「帰りたい」
それはすぐ答えられた。
遥は口を開き、何も言わなかった。
リタは籠を地面へ下ろした。リンゴが中で転がる。祖母の家で下ろすはずだったのに、またコンクリートの上だった。
「紬にも会いたい。でも、それだけじゃなくて」
続きが出てこなかった。
今歩いていけば、遥はここに残る。明日の朝、誰が糸の代わりに隣へ座るのか。そんなことを考えている自分が、祖母にはどう見えるだろう。
「おばあさん、待ってて」
言ってから、待たせているのはずっと自分だと思った。
祖母はリタを見ていた。ずきんを直せとも、早くしろとも言わなかった。
「足元を見て、歩きなさい」
「うん」
根が、遠くなった。
リタはそこへ触れなかった。遥も壁を開かなかった。
祖母の姿が枝に隠れ、湿った匂いだけが路地に残った。
ずっと握っていた赤い端を巻くと、自分たちの来た道だけが手へ戻ってきた。
*
家へ帰ってから、リタはリンゴを冷蔵庫へ戻した。
遥が横に立っていた。
「ありがとうって、言っていい?」
リタは少し考えた。
「今は言わないで」
遥は頷いた。
四つ目を置き、扉を閉めた。冷蔵庫の明かりが消えるまで、リタは中を見ていた。
選んでよかったとは、まだ思えなかった。祖母があの脚で坂を上がっているところが、目に浮かんだ。
リタは籠を抱え、部屋へ戻った。
今夜の扉は、半分だけ開けておいた。




