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第24話 交換の話

水曜の授業で、遥は三度、教科書の行を見失った。


 窓の外の工事車両が動くたびに、床がそちらへ寄る気がした。机の脚は動いていない。椅子も同じ場所にある。


 隣の子が読む所を指してくれた。


 声は出た。最後まで読めた。その間にも、紬のいる家は狭くなっているかもしれない。


 帰り道、自転車修理店の前で鈴が鳴った。


 遥は歩道の端へ寄った。自転車は来なかった。


「道瀬さん」


 店の横の通路に男がいた。


 知らない顔だった。けれど笑った口の奥に、人のものとは違う歯が重なっていた。


「昨日の続きがある」


 遥は叔母へ電話をかけた。


「修理店の前。狼がいる」


「赤い子には、聞かせない方がいい」


 男が言った。


「聞かせる」


 遥は店の人を呼んだ。通路を指した時には、もう何もいなかった。


 それでも店主は、入口の椅子を出してくれた。叔母が来るまで待っていろと言われ、遥は座った。


     *


 棚の下に、赤い輪が見えた。


 切り離した廊下が、歯の間に挟まっていた。箱はない。あの木の床だけが、店の奥に薄く広がっている。


 紬がいた。


 小さな男の子に器を渡している。底まで飲もうとする子に何か言い、布で口を拭いた。


 遥は電話を耳へ押し当てた。


「紬が、見えてる」


 自分の声が大きかったのだろう。紬がこちらを向いた。


 近づいてはこなかった。男の子の肩を押して下がらせ、それから遥を見た。


 遥は掌を上げた。


 昨日、妹がしてくれたように。


 紬も掌を返した。目が少し大きくなっていた。その顔を見たら、立ち上がっていた。


 店主が椅子の背へ手を置いた。椅子は遥と棚の間にあった。


「妹を帰せる」


 灰色の声がした。


 紬が首を振った。短く、一度。


 戸の陰へ消えるまで、遥は手を下ろせなかった。


「何を渡せば」


 尋ねた瞬間、叔母が電話の向こうで名前を呼んだ。


「赤ずきんを渡せ」


「布を?」


「布を持った、あの子を」


 遥の腕に、昨日抱き止めた体の重さが戻った。


 棚の奥で赤い糸が揺れた。狼はもう、たくさん持っている。


「それじゃ、足りないの」


「切られた先には戻れない。あの子なら、まだ歩ける」


 歯の脇で木の戸が動いた。狼がそちらを噛み直す。隙間に見えた紬の家は、また遠くなった。


「足りなければ、残りをほどかせる」


「布が欲しいんじゃないの」


 男は笑った。


「布だけで道ができるなら、とっくに取っている」


 遥は電話へ、リタを渡せと言われた、と伝えた。


 叔母の足音が止まった。


『返事はしなくていい。今、行くから』


 遥は椅子の背をつかんだ。


 金なら。自分の手なら。自分が向こうへ行けば。


 狼に尋ねれば、値段をつけられる気がした。


「紬を、先に出して」


「赤い子を受け取った後だ」


「帰すか分からない」


「信じなければ、向こうにいるままだ」


 遥は戸を見た。妹は戻ってこなかった。


 もう一度だけ顔を見たい。昨日もそう思って、壁から手を離せなかった。


 店主が入口へ椅子を寄せた。遥はついていった。背中に声が来る。


「お前にも、待った一年がある」


 遥は足を止めた。


 その一年を、その口で言ってほしくなかった。


「今は決めない」


「答えは裏へ持ってこい」


 何時に、と聞きそうになった。


 入口に叔母がいた。隣には、ずきんをかぶっていないリタが立っていた。


 遥は鞄の紐を握り直した。


 二人が店に入ると、棚の奥の声は止まった。

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