第22話 切ってください
紬の髪が、記憶より長かった。
箱の廊下の奥で、白い袖が動く。戸の陰から見えた肩に髪がかかり、顔を向けると、それが背中へ落ちた。
遥は壁に手を当てていた。
木の床までは出せた。サンダルをよけて歩いた場所。足を置いた時の、薄い板が沈む感触もある。
けれどそこから紬の戸までは、ひどく遠かった。開いた縁が定まらず、人の肩も通らない。
「ここまでだと思う」
リタが言った。糸の先で、二人の通った道は残っていた。その先は誰か別の人の床だった。
遥は頷こうとした。
紬がこちらを見た。
顔が見えた。一年ぶりなのに、変わった所を何一つ数えられなかった。
「紬」
向こうの口も動く。
もう一度だけ。何と言ったのか、それだけ聞きたい。
「もう少し」
遥の声で、リタの手が裾へ動いた。
新しい糸がほどけた。残った廊下を広げるように赤い輪が張り、戸が近づく。
叔母が二人の名前を呼んだ。
遥は右手を離そうとした。離す前に、紬が掌をこちらへ向けた。
止まって。
戸の上へ、歯が下りた。
*
歯は紬へ下りたのではなかった。
廊下の端を噛んでいた。板が折れる音はせず、箱だけが机の上で跳ねた。
リタは遥に体をぶつけた。壁から離れたところへ、細くなった出口が伸びてくる。
「手、離してるのに」
遥は右手を胸に抱えていた。
歯が一度外れた。壁の傷が短くなる。次の歯がそこを挟むと、また開いた。
リタの首が後ろへ引かれた。
ほどいた糸が、布から出続けている。押さえるほど指が痛くなった。遥が頬の横へ手を入れ、ずきんを頭から外してくれた。
「もう、脱いで」
「放したら」
全部なくなる、と言い終える前に、糸が手の中を走った。
叔母が椅子を横へ倒した。脚に引っかかった糸が外れ、リタの足元を滑っていく。
向こうの戸から紙が落ちた。
板の先が机へ重なる。叔母は布を差し入れ、紙が載ったところで引き戻した。
「取れた」
そう言って、離れた椅子へ置いた。
読む暇はなかった。
灰色の口の下で、ずきんが一段ずつほどけた。今朝、肩へかけた布が、指の間を通っていく。
叔母は鋏を持って戻った。
「どこを切る?」
遥は机の脚を見た。そこから出る赤い一本。妹の名前を書いた紙を待つ間、ずっとあった一本。
リタは答えを待った。早く言ってほしかった。自分で言いたくはなかった。
「両方」
遥が言った。叔母が机の下へ入る。
「待って」
遥の声がした。
リタは思わず顔を上げた。
「向こうに、閉じるって、まだ」
紬は下がっていた。掌を向けて、止まれと言っていた。
リタはそれを言った。声が震えたせいで、責めたように聞こえたかもしれない。
遥が自分の口元を押さえた。
リタは叔母を見た。
「切ってください」
叔母が頷いた。
机の下で、一本が切れた。
脚に残った短い端は動かない。箱の方へ続いていた赤が跳ね、灰色の歯に巻きついた。
もう一本が、急に重くなった。
リタの膝が机へ当たる。
帰る道をなくしたくなかった。手を開けと言われても、指が動かなかった。
遥の腕が腰へ回った。布を放し、リタの体を後ろへ抱える。
叔母はリタの指から遠い所へ、刃を入れた。
手の中が軽くなった。
リタは遥の胸へ倒れた。二人とも床へ座り込む。箱が跳ね上がり、薄い廊下だけが口へ吸い込まれた。
紙の箱は床に落ちた。
歯は消えた。
*
叔母が糸を外してくれても、リタの指には赤い線が残った。
「もう、握らなくていい」
指を開いたまま、壁を見た。何もなかった。木の戸も、紬の袖も、声の届いた緑も。
遥が立ち上がろうとして、床を踏み外した。
段はない。
本人も分かったらしく、すぐ立とうとはしなかった。掌で床を触り、膝を寄せてから、倒れた椅子を起こした。
「ここ、座れる」
リタはずきんを拾った。
畳むと、遥の鞄より小さくなった。頭を包む所は残っている。背中を覆った裾は、半分以上なくなっていた。
「ごめん」
遥が言った。
「いま、謝らないで」
遥が顔を上げた。
「わたしも、ほどいたの」
リタは布の端を合わせた。合わなかった。
隣の部屋で叔母が電話をかけている。三人とも無事です、と言っていた。
リタは膝を押さえた。机へぶつけた所が、遅れて痛み始めた。
遥は壁へ行かなかった。
叔母が取ってくれた紙を持ってきて、食卓に置いた。
「読もう」
リタは顔を上げた。切れた糸を、もう結び直そうとはしなかった。




