闇の代表取締役ノア01
サラ・ブライトン公爵夫人の『深海の雫』が宝石ドロボウに盗まれた!
衝撃的な知らせがロズリーヌの耳に入って来たのは、初めてのデートを経験してから一週間、時刻はそろそろ零時を回るころだった。屋敷の自室でピエールと執務をしていると、情報収集に向かわせていたマルティーニが部屋に飛び込んで来て、開口一番にそう言ったのである。
「公爵夫人は聖女シャルルリエルと第二王子マクシム殿下主催の夜会に出席し、帰りの馬車の中で襲われたそうです!」
マルティーニは息を切らせて詳細を告げた。
先日の夜会にてロズリーヌが発言をしてから、貴族たちは自らが主催して夜会を開くことを控え、ロズリーヌと第三皇子ティモシー、あるいは聖女シャルルリエルと第二皇子マクシムが開く夜会を待っていた。そのためここのところ、宝石ドロボウは出没していなかったのだが。
ロズリーヌは静かに目を閉じ、サラ公爵夫人のことを想った。
「……夫人に怪我は?」
「幸いにも、無傷だそうです」
「警備状況は?」
「マクシム殿下の権限で夜道の警備は増やされていたようです。でも、やっぱり誰も犯人を見ていないそうで……」
また宝石ドロボウは何処からともなく現れて、被害者に怪我を負わせることなく宝石を奪い、姿を消したようだ。一体全体どういう仕掛けがあって、宝石ドロボウは誰にも姿を見られないのか。ロズリーヌは難問にこめかみを揉んだ。
しかし、今はそんなことより、サラ夫人のことが気がかりだった。怖い思いをして、さぞかし心細いことだろう。
「お可哀想に、サラ夫人。励ましの手紙を書こう」
ロズリーヌは執務を中断し、夫人のことを気遣う手紙を丁寧にしたためてピエールに渡した。ピエールは一礼してすぐさま部屋を出た。
次の日、ロズリーヌはサラ公爵夫人に招かれ、ブライトン公爵邸にやってきた。ちょうど聖務が休みだったため、サラ夫人に指定された通りの昼下がりである。
ブライトン公爵邸は館こそ豪華絢爛だが、庭園には背の高い木がなく、花壇もなくて、芝ばかりで緑一色。飾ることを好まず無欲なアルバン・ブライトン公爵の性格がよく現れているようだった。サラ夫人は公爵のそんなところを好んで再婚したのだと聞いたことがある。
ロズリーヌが尋ねたとき、サラ夫人はサロンで椅子に腰かけていた。心配した様子で連れ子である少年少女が寄り添っており、サラ夫人は離れているところからでも分かるくらい、やつれていた。傍に控えていた侍女がロズリーヌに気づいて子どもたちと退席していくと、サラ夫人がこちらに視線を向けた。
覇気がない。
ロズリーヌは同行していたマルティーニを部屋の前に残し、サラ夫人の元へ近付いた。見たところ、前情報通り、怪我はない。
「サラ公爵夫人。大丈夫ですか?」
敢えて事件のことを口に出さず、ロズリーヌは彼女の足元で跪いた。足の上に置かれた手に両手を添えると、サラ夫人は潤んだ瞳で手を重ねる。
「『深海の雫』が……盗まれてしまったわ。あれはわたくしの亡きお祖母様がくださった、大事なものなのに……」
「夫人の亡きお祖母様が?」
サラ夫人は頷いて、『深海の雫』のことを話してくれた。
最初の結婚が死別という形になってしまったサラ夫人は、嫁ぎ先から追い出され、子どもを連れて元の伯爵家へ戻った。しかし伯爵家は出戻ってきたサラ夫人と、その子どもたちを厄介者扱いしたのだそうだ。
どこにも居場所のないサラ夫人は子どもたちを連れて毎日ルドルダ大聖堂へ通うようになった。そこで出会ったのがアルバン・ブライトン公爵で、幸運なことに二人は意気投合し、サラ夫人は公爵と再婚することにした。その際、普段は領地で暮らしている夫人の祖母がわざわざ『深海の雫』を持って現れ、家宝である『深海の雫』を譲ってくれたのだそうだ。
「お祖母様は遠くの領地から何度もわたくしを気遣い、子どもたちと領地へ来ないかと手紙をくれる優しい人なのです。そのお祖母様が家族の反対を押し切り、今度は幸せになれるようにと、おまじないをかけてわたくしに『深海の雫』を渡してくださった。それなのに……うぅっ」
言葉を喉に詰まらせ、嗚咽を漏らすサラ夫人。あまりにも悲しんでいるので、ロズリーヌは心配になってそっと【導き】の能力で夫人の時間を確認した。出てきたのは命の砂がたくさん残っている黄金の砂時計。幸い、自ら命を絶とうとまでは考えていないらしい。
ロズリーヌはひとまずホッとして、背中を丸めて泣き続けるサラ夫人の背を優しく撫でた。
しばらくしてサラ夫人は落ち着いて、笑顔を見せるようになった。そこへ計ったように紅茶を持った侍女とマルティーニが現われ、二人のために紅茶を淹れてくれた。紅茶の深い香りを吸い込むと、夫人はさらに気を和らげた。
今なら大丈夫だろうかと、ロズリーヌは気になっていたことを問いかける。
「ブライトン公爵はいらっしゃらないのですね。『深海の雫』の捜索をしているのですか?」
てっきり優しい紳士の彼なら夫人に付き添っていると思っていたのに、姿が見えないのが気になっていた。
サラ夫人は「どうなのかしら」と首を傾げる。
「アルバンは盗られてしまった物は仕方がないというような言い方をしていたわ。捜索はしてくれない……と思うのだけれど」
うる、とサラ夫人の目に涙が湧いて、ロズリーヌは慌ててブライトン公爵の肩を持つことにした。
「犯人の形跡が全くないそうですから、仕方がないと思われるのも無理はないかもしれませんね。それに奪われたどの宝石も未だ行方知らずですから、消極的なのも分かります。けれど、『深海の雫』が夫人に渡った経緯を聞いた後では、簡単に引き下がれませんよ。夫人とお祖母様のお話を、公爵は御存じですか?」
サラ夫人は頷いた。
「それならきっと、公爵は夫人の知らないところで尽力してくださっているに違いありません。私も手を尽くしましょう。どのように『深海の雫』が盗まれたのか、当時の状況を詳しく教えていただけますか?」
サラ夫人は「ロズリーヌさん……」と人差し指で涙を拭い、一拍置いてから、詳細を話してくれた。
聖女シャルルリエルと第二王子マクシム主催の夜会に出席し、お開きになるまで楽しんだ後、ブライトン公爵夫妻は帰路についた。その日は久しぶりに夜会が行われたこともあって、皆が最後までシャルルリエルの男爵邸に滞在し、同時に退席した。そのため馬車道はいつにも増して混雑しており、馬車はなかなか進まず、停まっている時間の方が長かった。
夜半を過ぎて街の明かりも消え去った夜道は不安なほど真っ暗。けれど、マクシム皇子が街中の警備を増やしたと言っていたので、それほど警戒はしていなかった。
しかし。
突然窓が割られ、驚いて悲鳴を上げた。硝子から顔を庇うために腕で顔を覆っている間に、侵入してきた誰かに身体を触られた気がしたけれど、乱暴はされなかった。すぐに腕を下げて辺りを見渡してみたが、すでに犯人の姿は無く、夫以外には誰もいなかった。
ホッとしたのも束の間。胸を押さえた際に、首につけていた『深海の雫』が無くなっていたことに気づいたのだった。
「もう、何が何だか……。アルバンは『やめなさい!』と叫んでいたけれど。わたくしは一瞬のことで、抵抗する間もなかったわ」
「怖かったでしょう。夫人に怪我が無くて幸いです」
ロズリーヌがそう言うと、サラ夫人は「ありがとう」とはにかんでくれた。少しは元気が出ただろうかと彼女の様子を確かめつつ、顎に手を当てて思案する。
抵抗する間もなく、一瞬で首から下げているネックレスを奪われるなんてことがあるのだろうか? ブライトン公爵にも話を聞いてみたい。「やめなさい!」と行動を咎める言葉を叫んだということは、犯人の行動を見ていたからかもしれない。
ふと夫人に視線をおくると、暗い表情に戻っていた。心の底から『深海の雫』を奪われたことを悔やんでいるようだ。
……。
「……夫人は犯人に何を求めますか?」
ふいにロズリーヌは問いかけた。何かを期待したわけではない。ただ気になったのだ。これだけ宝石を奪われたことを悲しんでいる被害者が何を思い、犯人に何を望むのか。
サラ夫人は考える素振りも見せず、すぐに答えてくれた。
「まずは『深海の雫』を返して欲しいわ。そして心からの反省を。贖罪を行い、再び罪を犯すことのないようにして欲しい」
「裁判による刑罰を望みますか?」
「わたくし、裁判が好きではないの。裁判って公平じゃないでしょう? 皇族やわたくしたち貴族は優遇されるわ。貴族の中でも地位で罰が違っていることもある。そんな裁判は禍根を残すことになりかねないわ。だからわたくしは裁判なんて、刑罰なんて望まない。聖レピュセーズ帝国には、聖教会があるから。聖教会で罪を懺悔し、贖罪をして、二度と同じ罪を犯さないのなら、それで良いの」
刑罰ではなく贖罪を。罪を認めて反省し、また罪を犯さないよう力強く真面目に生きること。それらを説き、手助けするのも、聖教会の活動だ。聖レピュセーズ帝国では聖教会が権力を惜しみなく発揮しているため、裁判さえ開かれなければそれができる。特に法律が平等ではなく、王侯貴族と平民の刑罰にあまりにも差のある現状においてこの活動は評価されており、高位聖職者立ち合いのもと、当事者同士で示談が成立することも少なくない。
被害者全員がサラ夫人のように、犯人に刑罰ではなく贖罪を求めるわけではないだろう。それでもロズリーヌは被害者の一人であるサラ夫人からそのような考えを聞けて良かったと思った。
「サラ夫人のお気持ちは犯人にも届くことでしょう。『深海の雫』はきっと夫人の元へ戻りますよ」
ロズリーヌが言うと、サラ夫人は優しい笑みを浮かべた。
それからゆっくり世間話をして、紅茶を二杯ご馳走になったところで、ロズリーヌはお暇することにした。サラ夫人はいつでも遊びに来てくれて良いと言ってくれ、その場で送り出してくれた。
部屋を後にしてマルティーニと合流し、廊下を進んでいると、アルバン公爵に出くわした。彼の様子から、部屋には入ってこなかったけれど、サラ夫人を気にかけてずっと近くにいたことが窺い知れる。計ったように紅茶が運ばれてきたのは彼の仕業だったのだ。
「夫人のことが心配ですね」
声をかけると、ブライトン公爵は「あぁ」と頷いた。
「彼女には可哀想なことをした。どうにか『深海の雫』だけでも取り戻せないだろうか」
そんなことを言うということは、ブライトン公爵は犯人の捜索をしているのかもしれなかった。しかし、何だろう。
(今、何かおかしかったような……?)
ロズリーヌはブライトン公爵の言い方に違和感を覚えたような気がした。けれど表情や行動にも特別おかしなところはなく、どこからどう見ても、彼は妻を心配する夫にすぎなかった。
憔悴しきったサラ夫人に寄り添っていたので、自分の感覚が敏感になっているのかもしれないとロズリーヌは解釈した。
気を取り直して、ロズリーヌはブライトン公爵に事件の日に馬車であったことを質問した。しかし、彼が話してくれた内容はサラ夫人が話してくれた内容とほとんど同じだった。
「公爵も犯人の姿は見ていないのですか?」
「あぁ、全く。誰かが侵入してきたことは分かったのだが、暗くて何も見えなかった」
ここでロズリーヌは、声を潜めてブライトン公爵に問いかけた。
「──公爵は『ノア』という裏社会の重要人物を知っていますか?」
「ノア?」
ブライトン公爵は目を大きくして驚いた様子だった。
ロズリーヌは街中で出会ったヴェルという少年が教えてくれてから、大悪党ノアなる人物を調べていた。しかし、どんなに聞き込みをしても街人は誰も知らないという。ヴェルにもあの日出会ったきりだ。
一方、ここのところ忙しくて社交界に出席していなかったので、王侯貴族には話を聞くことが出来ておらず、また、聞き出し方についても考えあぐねていた。
そんな折、ブライトン公爵夫妻が事件に巻き込まれた。ロズリーヌは、当事者なら限りなく自然に質問できると思い、口に出したのだった。
「実は、ある人物から此度の宝石ドロボウ──怪盗は、ノアという人物の仕業ではないかと聞いたことがあるのです」
誰から聞いたかは伏せる。
ブライトン公爵は顎に手を当てた。
「そのノアが宝石を盗んでいると?」
「そこまでは。関わっているかもしれないという話です。私はこう見えても裏社会には疎いので、ノアという名を聞いたのは初めてだったのですが。歴史ある公爵家のブライトン公爵様なら何かご存じかもしれないと思いまして。いかがですか?」
ブライトン公爵はやがて何かに気づいたように「そうか」と呟いた。
「ノアという名なら、聞いたことがある。一時期噂になったのだ。密売に暗殺、密偵。何でも請け負う裏社会の仕事人がいると。本人は滅多に姿を現さないので、二メートルを超える屈強な男であるとも、国を傾けるほどの美貌を持つ女であるとも言われている」
(やはり、知っていたか)
ロズリーヌは目を細めた。
陰謀渦巻く貴族社会には、ときどき表も裏も無くなるときがある。ノアのことを貴族たちから聞き出す方法を考えあぐねていたのは、万一深く関わっていてノア本人に伝わり、裏の深い場所へ隠れられても困るからだった。
煌びやかに見えるものには闇がある。貴族たちは決して公にはできない裏の顔を持っている。もちろん、この紳士ブライトン公爵にも裏の顔があるということだ。ノアという人物について知っているのがその証拠である。
(マルティーニにブライトン公爵の動向を探らせてみるか)
ロズリーヌが心の中で今後の計画を組み立てていると、ブライトン公爵は静かに「だが……」と表情を曇らせた。
「ノアは存在そのものが噂のようなものだ。本当はそんな人物なんて存在しないのかもしれない……」
「まるで都市伝説のような存在なのですね」
「その通り」
ブライトン公爵は大きく頷いた。ロズリーヌは、突然現れては消える、此度の宝石ドロボウにも通じるところがあるような気がすると思った。
「公爵様、もうひとつだけ。もし、ノアという存在がいるとするならば。ノアは何処を拠点にしていると思われますか?」
ロズリーヌの問いに、公爵はわずかに眉をひそめた。
「どうだろうな。ノアのような存在が身を隠すなら……そうだな。誰にも気づかれない『もうひとつの王都』だろうか」
「もうひとつの王都?」
ロズリーヌが首を傾げても、公爵は頷くだけで言葉の真意を教えてくれる様子はなかった。そればかりか。
「これは寝た子を起こすような事態になりかねない。君は手出ししないことをお勧めするよ。この件は私に任せ給え」
彼の真剣な深紅の瞳が言葉よりも強く、この件にはこれ以上関わるなと言っていた。
ロズリーヌは小さく頷くしかなかった。ロズリーヌが承諾したとみたブライトン公爵は、ロズリーヌの肩に手を置き、それまでの刺すような表情を一変させて柔和に微笑んだのだった。




