第三皇子ティモシー・ド・レピュセーズ06
焦りが頭を埋め尽くしそうになったとき。
「──我らが聖女! シャルルリエル様!」
信者たちの輪の中から、良く通る声が響き渡った。
咄嗟にシャルルリエルは話すのを止め、声に注目した。
「聖女シャルルリエル様。どうか、わたくしめに聖女様のご加護を……」
眉や口髭まで白くなった白髪の老人が手を組んで歩み寄って来る。装いは一般的な平民のものだが小綺麗で、老人にしては姿勢が良い。
「貴方……敬虔な信者様のようですね?」
女神の彫られたカメオのペンダントと、彼が小脇に挟んでいる聖書から判断したシャルルリエルが問いかける。老人は「毎日祈りを捧げています」と答えた。
シャルルリエルの興味が老人に移ったことを好機とみなし、ロズリーヌは音を立てないよう注意しながら後退して、そっと信者たちの輪の中に加わった。
今やもう、シャルルリエルも信者たちもロズリーヌには興味が無い。シャルルリエルが老人に何を言い、何をするかに注目している。
ロズリーヌは信者たちの間を縫うように移動していき、シャルルリエルと会話を交わしている老人の真後ろまで来ると、ぼそりと呟いた。
「ありがとう、ピエール」
そうして急いでその場を離れ、玄関廊まで小走りで移動した。
(大聖堂で走るのは厳禁。これは、あくまで足を速く動かしているだけで、走っていないッ!)
また心の中で言い訳をしながら、懐中時計を確認する時間さえ惜しんで必死に彼を探す。すると、北の壁に施してある女神と天使のモザイク壁画の前に、それらしき後ろ姿を見つけた。頭一つ抜ける身長に、城に近いほど透き通った彼のプラチナブロンドは、大衆の中でも一際目立って見える。
つま先を向け、人の流れを分断して急いで彼に近付いた。
ロズリーヌが声をかける前に彼がこちらを振り返る。待たせてしまったことを詫びようと口を開いたら、人差し指を当てられ塞がれた。
ティモシーは口元に笑みを浮かべているが、声をかけてこない。ただそっと、ここまで急いできた間に乱れたロズリーヌの髪を指先で優しく整えて、彼は壁画に視線を戻したのだった。
「……」
ロズリーヌは唇を閉じ、彼に倣って壁画に視線を向ける。
そうしてじっと壁画を観察していると。ふ、と爽やかさの中に甘さのある、嗅ぎ慣れた香水の香りが鼻腔をくすぐった。
「この壁画の題名は『女神と天使』。単純だからこそ、考察が活きるというものです。貴方にはこの壁画がどのようなシーンに見えますか?」
耳元でティモシーの声がする。熱を感じるくらい、彼が近くにいる。
大聖堂では声を潜めて会話をするのが一般的。ティモシーは聞こえやすいように唇を寄せているだけだろうが、ロズリーヌの心臓は悲鳴を上げた。
(こ、これくらいの距離なら婚約者だったときでも経験しているのに。どうしてドキドキするんだ)
しかし考えれば考えるほど意識してしまい、鼓動が大きくなる。このままでは倒れてしまうかもしれなかった。
(彼の言葉だけに集中しよう。他のことは考えるなッ)
ロズリーヌは頭を振り、壁画を隅々まで観察することにした。
壁画の中心。胸を押さえている女神が立っている。白い布を纏い、頭に月桂樹の輪を乗せ、頬を桃色に染め、伏し目がち。口角が上がっているようにも見えるが、微笑んでいるようには見えない。そして女神の周りには、白い羽の生えた四人の子どもの天使たち。天使たちはまるで遊んでいる最中かのように楽しそうな表情をしていた。
「──女神さまが子どもの天使たちに救われているところ、でしょうか」
結論が出たので質問に答えると、ティモシーは意外そうな声を出した。
「天使を遣わす女神さまが、天使に救われている? どうしてそう思うのですか?」
ロズリーヌは壁画から視線を動かさずに、率直な考えを伝える。
「私たちを救ってくださる女神様は、何に救われるのでしょうか? 私はそれが、『無邪気な心』ではないかと思うのです。この壁画はそれを表しているのではないかと。天使の姿が子どもでしょう? 子どもは無邪気ですから」
「何故、『無邪気な心』に女神さまが救われると思うのですか?」
「私たちがそうだからです。子どもたちを見ていると、様々なことはそっちのけで、守ってあげたくなるときがありませんか? 守りたいという気持ちは心に余裕がないと芽生えません。そして、心の余裕があるということは、救われている証拠なのです」
「なるほど。素晴らしい考え方ですね。……本当に」
どこか含みのある言い方に聞こえたが、気のせいだったのだろうか。ティモシーは穏やかな表情で頷いている。ロズリーヌにはそれが自分とは違った考えを受け入れた動作に見えた。
では、ティモシーは壁画を見て何を思ったのだろうか。
「殿下にはどのように見えますか?」
気になったので問いかけると、ティモシーは「そうですね」と顎に手を当てた。
「私には女神さまが子どもの天使たちに悪戯されて困っているように見えます。子どもは大人を困らせるのが得意ですからね」
「殿下を困らせるような子がいるのですか?」
ティモシーは「まぁ」と言いつつ腕を出した。ロズリーヌは自然な動作で彼の腕に手を絡めて寄り添い、彼が踏み出すのと同時に足を踏み出した。
「難しいですよ。金をちらつかせれば転がって、言葉で騙せる大人と違って、子どもは金や言葉ではなかなか動かせませんから。それなのに一粒のチョコレートで言うことを聞いてくれることがある」
「策士でいらっしゃる殿下らしいと言うべきか、子どものためにチョコレートを持ち歩いていることを微笑ましく取るべきか、私は迷っています」
「ははは!」
何が面白かったのだろうか、ティモシーは声を出して笑った。皇族が声を出して笑うことは滅多にないが、ティモシーの笑い声はどこかで笑い方を学んだかのように上品だった。
「そう解釈されるとは。せっかくですから、印象操作をしておきましょう。子どもに優しい皇子、でどうでしょうか?」
悪戯っぽい顔をして、ティモシーは懐から出した物をロズリーヌの手をつついて掌の上に転がした。紙に包まれていても、ふわんと甘くまろやかな香りが届いてくる。
「チョコレート? 私をチョコレート一粒で買収なさるおつもり?」
「お気に召しませんでしたか? キャンディーもありますよ」
今度は反対の懐から両端を摘んだ包み紙のキャンディーが出てくるので、ロズリーヌは純粋に感心した。
「すごい。殿下のふくよかな胸筋には子どもの夢が詰まっていますね」
「ははは! あー、失礼。面白くて」
またもや声を上げて笑ったティモシーに、ロズリーヌは首を傾げる。彼はこんなにも笑う人だっただろうか?
「なんだか、意外です。……殿下にはどこか近寄りがたい厳格な雰囲気があるから、こんなものを持ち歩いているとは思いませんでした」
本当は彼が声を出して笑うことに対して思ったことが口を滑って出たのだけれど、そんなことを言われる筋合いはないかもしれないと思い、別の話を付け加えた。もちろん、チョコレートやキャンディーを持ち歩いていることも意外だと思っている。
ティモシーの返答はというと。
「意外でしたか。それは良かった」
一体全体何が良かったのだろうと、ロズリーヌが再び首を傾げたところで、ティモシーは足を止めた。
いつの間にか翼廊にまで来ていた。先ほどシャルルリエルと出会った翼廊とは反対側。ロズリーヌがロズアトリスとして大聖堂で業務を行う際に使用する翼廊だったので、少し焦った。けれどきっと、ティモシーは最近までロズアトリスの婚約者だったから、無意識にこちら側へ来てしまったのだろうと解釈した。
「──今日お呼びしたのは、こちらをお渡ししたかったからです」
徐にティモシーが懐から出した書類を広げた。
婚約証明書だ。ロズアトリスとティモシーも婚約した際に同等の書類にサインをしている。
「それからこんなものもあります」
婚約証明書の下から婚約誓約書が出てきた。婚約誓約書というのは、婚約をする際に様々な条件を明記して、誤解のないようにするためのものだ。こちらはロズアトリスとティモシーの婚約の際には無かったものだが、王侯貴族の婚約には付き物だと聞いたことがある。
「……」
ロズリーヌは黙っていた。すぐに断れば良いのに、言葉が出なかったのだ。何故か断るのが怖い。婚約を断ってしまえば、彼とはもう、こうして話をすることさえできなくなるような気がして……。
ビリビリビリッ
突然、見つめていた婚約証明書と婚約誓約書が破かれた。もちろん、ティモシーの手によって。
「何を!?」
驚いたロズリーヌは目を瞬いた。
「私がつい一ヵ月ほど前まで婚約していたのはご存じですよね?」
ティモシーが破いた証明書と契約書を懐へしまい込みながら言った。ロズリーヌが口を噤んで遠慮がちに頷くと、ティモシーは先を続けた。
「私は幼い頃に婚約証明書にサインをしました。その紙切れ一枚がある限り、私はずっと、何があろうがなかろうが、その方の未来の夫であり、その方は私の未来の妻でした。……だからでしょうか。私たちは……私は、その契約に甘んじて、お互いのことを何も知らずに、十年も過ごしてしまったのです」
ロズリーヌ──ロズアトリスはハッとした。それは、最近ロズアトリスも思っていたことだった。
「ロズリーヌ殿。婚約しましょうと言っておいて申し訳ないのですが、私はもう少しこの関係を続けたい。会うたびに違う一面を見せてくれる貴方を、婚約者という立場に縛られず、もっと知りたいのです」
真摯な瞳に胸を射貫かれた。
ロズアトリスが彼に意地悪なところがあることを知ったのはつい最近だ。子どもたちのためにお菓子を忍ばせていることを知ったのは今日。彼の言う通り、何があろうといずれは結婚するからと、彼のことを知ろうとしていなかった。彼のことを疎かにしていたのだ。
彼を知りたい。
ロズアトリスもまた、会うたび新しい姿を見せてくれるティモシーのことを、強く知りたいと思った。空白の十年を取り戻す贖罪に──いや。これは単純な彼への興味だ。
分からない。知りたい。ただ、それだけ。気がついたらロズアトリス──ロズリーヌは頷いていた。
「私も貴方を知りたいです」
途端、花が綻ぶようにティモシーが笑ってドキリとした。
「良かった」
どうして、そんなに嬉しそうに笑ってくれる?
思わず浮かんだ疑問は口から出ることは無く、次の話の内容に儚くも消えてしまうのだった。
「ではまず、いつも通りの自分でいるために、敬語はやめましょう。それから私のことはティムと愛称で呼んで欲しい。貴方のことはローズと呼んでも?」
「構わないですけれど、殿下に敬語を使わず愛称で呼ぶのは不敬ではありませんか?」
「これからお互いのことを知ろうと言うのに、不敬も何もない。どうしても気になるのなら、二人でいるとき、二人で話すときだけでも」
「では、そのように」
ティモシーは満足そうに一つ頷いて、話を変えた。
「この後の予定は? よければ食事を一緒にどうだろう、ローズ」
早速敬語を排し、愛称を使ってくるので、ロズリーヌも遠慮なくいつも通り答えることにした。
「すまない、この後は用事があるのだ」
スカートの裏から懐中時計を出して確認すると、じきに正午になる時刻だった。正午にはロズアトリスとして昼の祈りに参加しなければならないので、ティモシーとはここでお別れだ。
「では別の日に。食事をしながら聞きたいことがあったのだけれど、またにするよ」
「聞きたいこと?」
思わずロズリーヌは聞き返した。これまでのティモシーの様子から甘さが抜け、真面目な態度になったような気がしたからだ。
ティモシーは少しだけ考えるような素振りを見せてから口を開いた。
「……ローズ、貴族や商家を狙った宝石強盗事件を調査しているだろう?」
ロズリーヌは唖然とした。
「どうして、それを……」
少なくとも公にはせず、調査をしていたはずなのに。
「私は結構情報通なんだ。特に王都で起こっていることはほとんど把握していると言っても過言ではない」
「それは貴方が皇族だから? それとも貴方だから?」
「どちらも、かな。とにかく、これだけは言っておこう。危ない目にあいたくないのなら、宝石強盗事件には首を突っ込まないことだ」
「な……」
リン ゴーン リン ゴーン リン ゴーン
正午の十五分前を示す鐘がロズリーヌの言葉を奪った。
さすがにそろそろ切り上げなければ、昼の祈りに間に合わない。
どうしてティモシーが宝石ドロボウ事件について忠告するのか気になるが、仕方がない。ロズリーヌはそのとき言おうとした言葉を呑み込み、別の言葉を口に出した。
「分かった、気を付ける。それより、すまない。正午に予定があるので、このあたりでお暇しても?」
「あぁ、予定があると言っていたね。忙しいのに今日はありがとう。また手紙を書くよ」
「私も返事を書く。では!」
余韻に浸る間もなく、ティモシーとはその場で別れた。
大聖堂の外へ出て木の陰でスカートの下からローブを引っ張り出し、頭から被って宮殿の中へ入ると、ロズリーヌはすぐに私室へ飛び込んだ。
「無事にお戻りになられて良かったです!」
マルティーニがすかさず近寄ってきてロズリーヌの衣装替えを手伝ってくれる。
ローブとドレスを脱ぎ捨て、祭服に着替えてかつらを脱いだところ。
コンコンコン
「聖女ロズアトリス様。いらっしゃいますか?」
「「!」」
扉の外から男性の声がして、二人は顔を見合わせた。化粧はまだロズリーヌのまま。
「……何でしょう?」
ひとまずロズアトリスが声だけで返事をすると、男性は「良かった」と息を漏らして続けた。
「お戻りになられていたのですね。今、お時間いただけますでしょうか?」
マルティーニが「十分前くらいに訪ねて来られた人がいました。その人かもしれません」と耳打ちする。ここで断れば、彼に疑問が湧くかもしれない。今後のためにも懸念を払っておきたい。
「もちろんです。しばしお待ちを」
ロズアトリスは急いで口紅を落とし、桃色の口紅を引き直すと、ヴェールを被って扉へ急いだ。その間にマルティーニはクローゼットの中へ隠れる。
「何のご用?」
頭から白いレースのヴェールを被った祭服姿のいつものロズアトリスが姿を現すと、男性の聖職者は親しみの笑みを零した。
「次の生活困窮者たちへの救済についてですが……」
彼は持っていた書類をロズリーヌに手渡した。
生活困窮者への奉仕は食べ物や生活必需品を聖職者が手ずから配給するいつもの催しだ。長年続けているので特段変えるようなこともないが、不備があっても困るので、手配の担当者は毎回確認に来てくれるのである。
ロズアトリスが問題ないことを告げると、彼は満足そうに頷いた。
「これから正午の祈りですよね? 一緒に行きませんか?」
「……」
ロズアトリスはしばし考えたが、結局彼の申し出を快諾した。おそらく祈りの時間までは五分を切っている。ここで断り、こんな間際の時間になっても移動しないなんておかしい、などと勘繰られてもいけないと思ったからだった。
ロズアトリスは聖職者と並んで歩いて宮殿の礼拝堂まで移動した。
無事に礼拝堂で正午の祈りを捧げる。祈りが終わったら一度私室へ戻るつもりだったが、聖職者たちに脇を固められてしまった。ロズアトリスが昼のミサの司式を任されているからだ。仕方なく、ロズアトリスは私室に残したマルティーニの無事を願いながら、複数の聖職者たちと共に大聖堂の後陣まで移動し、聖女座に立った。
心を改め、集まった大衆を見渡す──と、ティモシーの姿が目に入った。
思わずヴェールを指先で直す。別に彼がミサに参加していてもおかしくないのに、どうしてここにいるのだろうと考えて、ふと思い出した。ロズリーヌがミサを司式するときは必ず来てくれていたことを。
彼に来てくれとお願いしたことはない。婚約者なら必ず参席しなければならないわけでもないので、シャルルリエルが司式する際にマクシムがいるところを見たことは無かった。けれど、物心がついて、気がついたときには、ティモシーは毎回欠かさずロズアトリスが司式するミサに参加してくれていた。
遠くから見守る、今と変わらない距離で。
今思えば、もっと近くにきてくれても良かったのに。彼はそうせず、ロズアトリスもまた声をかけなかった。それがロズアトリスとティモシーの距離だった。
もう、ロズアトリスとして彼の近くに立つことはないのだろう。
そう思うと途端に寂しくなった。自分で婚約破棄しておいて、寂しいと思うのはエゴだろうか。
(けれど、彼にとっては良いのかもしれない。ロズアトリスの婚約者ではなくなった彼は、自由に人を揶揄って、声を出して笑って……とても、素敵だから)
チクチクと胸を差す痛みに蓋をして、ロズアトリスは高らかにミサの開始を告げた。




