第99話 【押印】
十一月。
空気が変わり始めていた。
利用者は変わらない。
家族も変わらない。
現場も穏やかだ。
しかし。
職員たちの表情だけが少し違った。
本社監査が近づいていた。
ナースステーション。
主任が書類を整理している。
看護師たちも忙しそうだ。
「監査大変ですね」
若い看護師が言う。
主任は苦笑した。
「毎年だからね」
その時だった。
「主任」
別の看護師が声を掛ける。
「この書類ですけど」
一枚の同意書。
利用者家族の署名欄が空白だった。
主任は確認する。
「ああ」
そして自然な口調で言った。
「あとで家族来るから」
「はい」
そこまでは普通だった。
問題は次だった。
「もし来なかったら私が預かる」
若い看護師が首を傾げる。
「預かる?」
「電話で確認取れてるから」
主任はそう言った。
その瞬間。
高梨の手が止まる。
「主任」
部屋が静かになる。
主任が振り返る。
「何?」
「それは駄目です」
即答だった。
主任は少し困った顔をした。
「何が?」
「署名は本人です」
「もちろん」
「本人が書くべきです」
主任はため息をつく。
「高梨さん」
その声は穏やかだった。
怒ってはいない。
むしろ諭しているようだった。
「家族は同意してる」
「でも署名してません」
「電話確認もしてる」
「それでも」
高梨は引かなかった。
「記録に残すなら正式にやるべきです」
沈黙。
長かった。
やがて主任は言う。
「分かった」
それ以上は続かなかった。
だが。
周囲の看護師たちは俯いていた。
昼休み。
若い看護師たちが話している。
「高梨さんってすごいよね」
「うん」
「絶対曲げない」
「真面目だよね」
言葉は褒め言葉だった。
だが。
少し距離がある。
少しだけ。
夕方。
高梨は一人で記録を見直していた。
先ほどの件。
大きな問題ではない。
実際に家族は同意している。
おそらく後日署名ももらえる。
だが。
最近こういうことが増えている。
小さい。
本当に小さい。
だから見逃される。
そして積み重なる。
夜。
ホテル。
榊の元へメールが届く。
差出人。
施設長。
件名。
『相談』
本文は短かった。
高梨氏への対応について。
このままでは現場との関係修復が難しい。
榊は画面を見つめる。
そして椅子へ深く座った。
関係修復。
施設長はまだそう考えている。
解任ではなく。
修復。
榊は少しだけ笑った。
施設長らしいと思った。
だが。
会社は違う。
本社が求めているのは修復ではない。
リスクの排除だ。
その差が。
少しずつ広がり始めていた。
同じ頃。
高梨は帰宅前にロッカーを開ける。
中には一枚の封筒。
差出人はない。
中を見る。
紙が一枚。
たった一文。
あまり騒がない方がいいですよ
高梨はしばらくその紙を見つめていた。
誰が入れたのか分からない。
悪意なのか。
善意なのか。
それすら分からない。
ただ一つ。
これまでとは違う段階へ入ったことだけは理解できた。




