第96話 【数字のために】
十月。
施設は相変わらず忙しかった。
入居者は増えている。
看護師も採用されている。
家族からの評判も良い。
順調だった。
少なくとも外から見れば。
午前十一時。
高梨は主任から呼ばれた。
「少し確認したいことがあるの」
会議室。
小さな部屋だった。
主任と高梨。
二人だけ。
机の上には訪問計画書。
利用者は田中和夫。
七十九歳。
肺がん終末期。
高梨も担当している利用者だった。
「田中さんだけど」
主任が言う。
「訪問回数を増やしたいと思ってる」
高梨は資料を見る。
現在は週七回。
状態も安定している。
疼痛も落ち着いている。
「理由は?」
主任は答える。
「状態変化リスク」
高梨は黙る。
まただ。
「何か変化ありました?」
主任は資料をめくる。
「特には」
「食事量は?」
「変わらない」
「呼吸状態は?」
「変わらない」
「疼痛は?」
「変わらない」
高梨は資料を閉じた。
「なら必要ないと思います」
初めてだった。
はっきり反対したのは。
部屋が静かになる。
主任は少し困った顔をした。
怒ってはいない。
むしろ疲れている。
「高梨さん」
「はい」
「私もそう思うよ」
高梨は顔を上げた。
主任は苦笑していた。
「え?」
「私だって看護師だから」
静かな声だった。
「分かるよ」
高梨は何も言えない。
主任は続ける。
「でもね」
窓の外を見る。
「施設全体を見なきゃいけない立場になると違うんだよ」
「……」
「現場だけ見ていられない」
その言葉には重みがあった。
主任もまた板挟みだった。
その日の夕方。
高梨は訪問記録を確認していた。
その時。
一つのメールが目に入る。
本社配信。
全国施設向け。
件名。
『第四四半期重点目標について』
高梨は何気なく開いた。
そして手が止まる。
訪問件数。
複数名訪問率。
利益率。
全国順位。
数字ばかりだった。
利用者満足度もある。
家族満足度もある。
だが。
最後のページ。
そこには大きく書かれていた。
『目標達成施設表彰』
そして。
『上位施設事例共有』
高梨は画面を閉じた。
胸の奥が重い。
なぜだろう。
今までは気にならなかった。
だが今日は違う。
田中さんの顔が浮かぶ。
週七回で十分な利用者。
その訪問を増やそうとしている。
利用者のためか。
施設のためか。
会社のためか。
答えが分からない。
夜。
ホテル。
榊は施設長との面談記録を読んでいた。
その中に気になる一文がある。
『現場から訪問増加の必要性について異論あり』
榊は目を細めた。
異論。
誰だろうか。
考えるまでもなかった。
高梨だ。
その時、
スマートフォンが鳴る。
メディカルリンク本社。
「榊です」
電話の向こうの担当者が言う。
「依頼主から要請です」
「何だ」
数秒の沈黙。
そして。
「対象者への対応を早めてください」
榊は黙った。
ついに来た。
調査ではない。
実行段階。
高梨を組織から排除するための。
本当の仕事が。




