第87話 【前例】
朝のカンファレンス。
看護師。
介護士。
リハビリ職。
相談員。
いつもの顔ぶれだった。
スクリーンには利用者一覧が映されている。
「次です」
看護主任が資料をめくった。
「鈴木さん」
八十二歳。
肺がん末期。
現在の訪問回数は週七回。
「最近どうですか?」
看護師が答える。
「食事量は少し低下しています」
「呼吸状態は?」
「大きな変化はありません」
「疼痛は?」
「コントロールできています」
看護主任が頷く。
「では週十回へ変更しましょう」
高梨の手が止まった。
「理由は?」
思わず口に出る。
会議室が静かになる。
看護主任は資料を見る。
「状態変化リスクです」
「現在も?」
「はい」
「何か変化がありましたか」
主任は少し困った顔をした。
「終末期ですよ」
それは答えになっている。
終末期であることは事実だ。
いつ急変してもおかしくない。
だから間違ってはいない。
だが。
「先月も同じ説明でした」
高梨が言う。
空気が少し変わる。
「高梨さん」
主任の声が少し硬くなる。
「状態変化リスクは継続しています」
「それは分かります」
「なら問題ありません」
会議はそのまま進んだ。
高梨だけが黙る。
昼休み。
食堂の隅。
高梨は一人で弁当を食べていた。
そこへ西田がやってくる。
「珍しいな」
向かいへ座る。
「何がです?」
「カンファレンス」
高梨は黙る。
西田は続ける。
「ちょっと強かったぞ」
「そうですか」
「主任困ってた」
高梨は箸を置いた。
そして聞く。
「西田さん」
「うん」
「終末期なら訪問回数は増やした方が良いと思いますか」
西田は少し考える。
「利用者によるかな」
「……」
「でも安心は増えると思う」
それも事実だった。
家族は安心する。
利用者も安心する。
職員も安心する。
高梨は小さく頷いた。
「そうですよね」
そしてそれ以上は言わなかった。
夕方。
榊は資料を見ていた。
訪問回数推移。
三年前。
二年前。
一年前。
現在。
少しずつ増えている。
だが不自然ではない。
利用者数増加。
重症度増加。
どれも説明できる。
説明できるのだ。
その時。
ノックの音がした。
「失礼します」
高梨だった。
手にはファイル。
「少しお時間ありますか」
榊は頷く。
高梨は椅子へ座った。
そして一枚の資料を差し出す。
訪問計画変更一覧。
「これを見てください」
榊が目を通す。
三年前。
週五回。
二年前。
週七回。
現在。
週十回。
週十四回。
さらに増えている。
「利用者の状態が悪化した?」
榊が聞く。
高梨は首を横に振った。
「全員ではありません」
静かな声だった。
「でも増えているんです」
「理由は?」
高梨は答えなかった。
答えられなかった。
なぜなら。
理由はいつも同じだからだ。
状態変化リスク。
それは正しい。
だが。
あまりにも便利な言葉だった。
「前例ができてしまうんです」
高梨が呟く。
榊は顔を上げる。
「前例?」
「はい」
高梨は窓の外を見る。
「一人に認められると」
「……」
「次の人にも使える」
「……」
「その次にも」
そして小さく続けた。
「気付いたら、それが当たり前になる」
榊は黙った。
それは医療でも介護でも、
どこの組織でも起きることだった。
不正は突然始まらない。
正しい理由から始まる。
そして少しずつ広がる。
誰も気付かないまま。




