第82話 【桜の約束】
「西田さん」
昼食後。
ある利用者が声をかけた。
「来年も見られそうかな」
西田は笑った。
「何をです?」
「桜だよ」
ベッドに横たわる男性。
佐伯 恒一。
七十八歳。
末期がん。
余命は長くない。
それでも表情は穏やかだった。
「あと何ヶ月だと思う?」
突然そんなことを聞く。
「分かりませんよ」
西田が苦笑する。
「先生じゃないんですから」
佐伯も笑った。
「だよな」
窓の外を見る。
六月の空。
桜の季節は終わっている。
「来年の桜」
佐伯が呟く。
「見たいんだよ」
その時だった。
「お父さん」
娘が部屋へ入ってきた。
五十代くらい。
毎日のように面会へ来る人だった。
「またそんな話してる」
「大事な話だろ」
「もう」
娘は笑う。
西田は静かに席を外した。
廊下へ出ると榊が立っていた。
「家族か」
「毎日来てます」
「熱心だな」
「ここだと来やすいんです」
西田は言った。
「病院よりずっと」
榊は何も言わない。
その言葉の意味が分かるからだ。
面会制限。
病室の空気。
治療中心の生活。
それらは必要なことだった。
だが、
ここにはない。
生活がある。
それだけだった。
数週間後。
佐伯の状態は少しずつ悪化した。
食事量が減る。
歩けなくなる。
眠る時間が増える。
それでも家族は毎日来た。
ある日は孫。
ある日は曾孫。
ある日は昔の友人。
部屋はいつも賑やかだった。
そして八月。
佐伯は自分から言った。
「もう十分だ」
娘が泣く。
孫も泣く。
だが佐伯は笑っていた。
「良い人生だった」
西田はその場にいた。
高梨もいた。
家族もいた。
誰も慌てていない。
誰も急かしていない。
ただ同じ時間を過ごしていた。
「ありがとうな」
佐伯が呟く。
誰に向けた言葉か分からない。
家族か。
職員か。
人生そのものか。
静かな時間だった。
やがて呼吸が浅くなる。
娘が手を握る。
孫が肩に触れる。
西田が見守る。
高梨も見守る。
そして。
佐伯は眠るように息を引き取った。
静かな最期だった。
その場には泣き声もあった。
笑顔もあった。
ありがとう。
そんな言葉が何度も聞こえた。
その夜。
高梨は一人で記録を書いていた。
看取り完了。
その文字を入力する。
そして手が止まる。
今日亡くなった佐伯は、
間違いなく幸せだった。
家族もそう思っている。
職員もそう思っている。
高梨もそう思っている。
だから苦しい。
もし自分が動けば。
こんな最期を迎えられなくなる人が出るかもしれない。
画面がぼやける。
目を閉じる。
答えはまだ出ない。
だが、
佐伯の穏やかな表情だけは、
どうしても忘れられなかった。




