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『解任請負人』  作者: 二交代の看護師
第三部 ホスピス編
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第81話 【境界線】


その日の夜。


高梨は記録を入力していた。


夜勤は静かだった。


利用者たちも眠りについている。


ナースステーションにはキーボードを叩く音だけが響いていた。


訪問看護実施。


状態観察。


疼痛評価。


内服確認。


精神的支援。


いつもと変わらない記録。


いつもと変わらない業務。


ふと画面の端に表示された訪問件数が目に入る。


今月の実績。


先月の実績。


その前の月。


少しずつ増えている。


利用者数はほとんど変わらない。


看護師数も変わらない。


なのに訪問件数だけが伸びている。


「高梨さん」


声を掛けられる。


主任だった。


「これ確認お願い」


渡されたのは訪問計画書。


「訪問回数増やすんですか?」


高梨が聞く。


主任は自然な表情で答えた。


「状態変化が心配だからね」


間違ってはいない。


利用者は終末期だ。


何が起きてもおかしくない。


だが高梨は知っていた。


先週も同じ説明だった。


先々週も。


先月も。


「分かりました」


それ以上は言わなかった。


主任が去った後、


高梨は計画書を見つめる。


状態変化のリスクあり。


便利な言葉だった。


嘘ではない。


終末期利用者にリスクがない人はいない。


つまり、


ほぼ全員に当てはまる。


高梨は目を閉じた。


その時だった。


「まだ帰らないの?」


振り返る。


西田だった。


夜勤帯の巡視を終えたのだろう。


コーヒーを片手に立っている。


「もう少しです」


「働きすぎだよ」


西田は笑った。


以前の職場では考えられなかった表情だった。


余裕がある。


疲弊していない。


「西田さん」


高梨が呼ぶ。


「うん?」


「今の職場、好きですか」


西田は笑った。


「好きだよ」


即答だった。


「給料も良いし」


「……」


「休みも取れる」


「……」


「利用者さんも穏やかだし」


そして少しだけ真面目な顔になる。


「何より職員が辞めない」


高梨は黙る。


「介護ってさ」


西田は続けた。


「みんな理想を語るんだよ」


「……」


「利用者さんのためとか」


「……」


「地域のためとか」


そして苦笑する。


「でも職員が食えなきゃ意味ない」


高梨は反論できなかった。


以前の西田を知っているから。


疲弊し。


壊れかけ。


介護を辞めようとしていた頃を。


今の西田は違う。


この施設が救った人間だった。


「高梨さん」


西田が言う。


「何か悩んでる?」


高梨は少しだけ笑った。


「いえ」


嘘だった。


西田は気付いていない。


気付いてほしくもなかった。


もし今の話をしたら、


西田は傷つく。


この施設は間違っているかもしれない。


そう言われたら。


誰よりも傷つくのは、


この施設に救われた人たちだ。


利用者。


家族。


そして西田。


高梨は窓の外を見た。


自分は何を守りたいのだろう。


制度なのか。


利用者なのか。


職員なのか。


それとも、


看護師としての倫理なのか。


答えはまだ見つからない。


だが一つだけ分かることがあった。


もしこれ以上進めば。


いつか誰かが、


超えてはいけない線を超える。


高梨にはそんな予感がしていた。



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