第80話 【正しいこと】
夜勤明け。
午前十時。
施設の裏手にある休憩スペースには誰もいなかった。
自動販売機が一台。
ベンチが二つ。
それだけだった。
榊は缶コーヒーを開ける。
すると背後から声がした。
「待ってました」
振り返る。
高梨だった。
夜勤明けなのだろう。
少し疲れた顔をしている。
それでも目だけはしっかりしていた。
「君か」
榊が言う。
「資料、見ました?」
単刀直入だった。
「見た」
高梨は少しだけ安心したような顔をした。
「どう思いましたか」
「まだ分からない」
榊は正直に答えた。
「訪問は実施されている」
「はい」
「記録もある」
「あります」
「利用者から苦情もない」
「ありません」
高梨は黙る。
それは全て事実だった。
「だから困ってるんです」
その言葉には疲労が滲んでいた。
「高梨」
榊が聞く。
「君は何をしたいんだ」
高梨は少しだけ笑った。
「難しい質問ですね」
空を見上げる。
梅雨の雲が広がっていた。
「私はこの施設が好きです」
即答だった。
「利用者さんも好きです」
「うん」
「職員も好きです」
「西田もか」
高梨は頷いた。
「西田さんは良い人です」
少しだけ笑う。
「介護士さんたちも頑張っています」
「施設長は?」
少し考える。
「尊敬しています」
榊は眉を上げた。
ここまで聞く限り、
告発する理由が見当たらない。
すると高梨が言った。
「でも」
その一言だけで空気が変わる。
「正しいとは思えないんです」
榊は黙っていた。
「利用者さんの状態は安定しています」
「うん」
「それなのに訪問が増える」
「理由はあるんだろう」
「あります」
高梨は即答した。
「説明もできます」
「記録も?」
「書けます」
「じゃあ問題ないんじゃないか」
高梨は苦笑した。
「そうなんですよ」
そして続ける。
「全部説明できるんです」
風が吹く。
「全部記録も書ける」
少しずつ声が小さくなる。
「全部ルールの中にある」
榊は初めて理解した。
高梨が戦っている相手は、
違法行為ではない。
もっと厄介なものだ。
「制度か」
高梨が顔を上げた。
「はい」
その目は真っ直ぐだった。
「制度の穴です」
沈黙が落ちる。
「だから誰も止められない」
「……」
「会社も」
「……」
「現場も」
「……」
「利用者さんも」
高梨はそこで言葉を切った。
「むしろ喜んでいます」
榊は何も言えなかった。
それは事実だ。
利用者は困っていない。
家族も感謝している。
職員も守られている。
それでも。
「だから見過ごしていいんでしょうか」
高梨の問いは、
榊に向けたものではなかった。
自分自身への問いだった。
その時だった。
休憩スペースの入口から声がした。
「お疲れさまです」
西田だった。
高梨の表情がわずかに固まる。
西田は二人を見て少し首を傾げた。
「何の話してたんですか?」
高梨は答えない。
榊も答えない。
西田だけが気付いていなかった。
この施設の未来を左右する話が、
今まさに始まっていることに。




