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『解任請負人』  作者: 二交代の看護師
第三部 ホスピス編
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第79話 【掃除のおじさん】


翌朝。


榊は施設一階のラウンジにいた。


まだ朝七時。


利用者も少ない。


静かな時間だった。


廊下の奥からモップを引く音が聞こえる。


シャッ。


シャッ。


一定のリズム。


見ると、一人の男性が床を掃除していた。


昨日見かけた人物だった。


作業着姿。


五十代後半くらい。


黙々とモップを動かしている。


「おはようございます」


榊が声をかける。


男性は顔を上げた。


「ああ、おはようございます」


人懐っこい笑顔だった。


「昨日もいましたよね」


「掃除ですから」


男性は笑った。


「毎日いますよ」


名札を見る。


宮本


苗字だけだった。


「ここの職員ですか?」


榊が聞く。


宮本は首を横に振る。


「違います」


「違う?」


「委託です」


モップを動かしながら続ける。


「清掃会社ですよ」


「なるほど」


「だから介護も看護もよく分かりません」


榊は少し興味を持った。


「長いんですか?」


「五年ですね」


「結構長いな」


「利用者さんと仲良くなっちゃって」


宮本は照れ臭そうに笑った。


「ここ好きなんですよ」


その言葉は自然だった。


職員ではないからこそ、


利害関係も薄い。


「良い施設ですから」


榊が言う。


宮本は頷いた。


「本当にそう思います」


即答だった。


「利用者さんも幸せそうだし」


「うん」


「職員も優しいし」


「そうだな」


そして宮本はモップを止めた。


「だから余計に困るんですよ」


榊の視線が上がる。


「何がだ?」


宮本は周囲を確認した。


利用者はいない。


職員もいない。


「高梨さん」


その名前が出た瞬間、


榊は表情を変えなかった。


「看護師の?」


「ええ」


宮本は少しだけ困った顔をする。


「悩んでるんです」


榊は黙って聞く。


「真面目なんですよ」


「そう見える」


「めちゃくちゃ真面目です」


宮本は苦笑した。


「俺なんかに相談してくるくらいだから」


「相談?」


「いや」


宮本は頭を掻いた。


「相談というか愚痴かな」


そして少しだけ声を落とした。


「俺には制度とか分かりません」


モップの先を見る。


「診療報酬も知らない」


「うん」


「介護保険も知らない」


宮本は笑った。


「でも」


その笑顔が消える。


「不正は駄目でしょう」


短い言葉だった。


「そう言ったんです」


榊は黙る。


「そしたら高梨さん、困った顔してました」


宮本は再び掃除を始めた。


「変な話ですよね」


シャッ。


シャッ。


モップが動く。


「利用者さんは喜んでる」


シャッ。


「家族も喜んでる」


シャッ。


「職員も喜んでる」


そして宮本は振り返った。


「でも高梨さんは、ずっと悩んでる」


榊は何も言えなかった。


その日の午後。


榊は高梨の勤務表を確認していた。


出勤率は高い。


残業も少ない。


有給も取っている。


職場環境に不満があるようには見えない。


だが。


資料の端に小さなメモがあった。


利用者利益


会社利益


その二つの言葉の間に、


一本の線が引かれている。


そしてその横に、


小さな文字でこう書かれていた。


どこからが利用者のためなのか。


榊はしばらくその文字を見つめていた。


初めてだった。


誰かを守るための告発。


それがどれほど厄介なものか。


少しずつ理解し始めていた。


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