第5話 【リーク前夜】
「投稿を消してください」
病院事務長・岸本の声は低かった。
だが、その奥に焦りが滲んでいる。
榊真司はスマホを軽く振った。
「消せますよ」
高坂が顔を上げる。
一瞬だけ希望が戻った。
だが次の言葉で、その希望は砕ける。
「条件次第で」
岸本の目が細くなる。
「……金ですか」
「半分正解」
榊は非常階段の窓から外を見た。
夕方の空。
救急搬送のサイレンが遠くで鳴っている。
「俺が欲しいのは、“処理”です」
「何を言っている」
「宮下遥さんへの退職強要撤回。未払い残業の再調査。あと――」
榊は高坂を見る。
「パワハラ調査委員会の設置」
高坂の顔が引きつった。
岸本は即答する。
「そんなことをすれば病院の信用が終わる」
「もう終わりかけてますよ」
静かな返答だった。
岸本は黙る。
榊は続ける。
「今はSNS一つで飛びますからね。“看護師いじめ病院”って」
遥の喉が小さく鳴る。
現実感がなかった。
つい昨日まで、自分は辞める側だったのに。
今は病院そのものが揺れている。
その時。
岸本のスマホが鳴った。
相手を見た瞬間、表情が変わる。
「……はい、病院長」
高坂が息を呑む。
岸本は数秒話し、顔色を失った。
「……はい。わかりました」
通話が切れる。
沈黙。
そして岸本は、高坂を見た。
「院長室へ来てください」
高坂が首を振る。
「待って……私を切る気?」
岸本は答えない。
それが答えだった。
「ふざけないで……!」
高坂の声が震える。
「私は病院のために――!」
「病院のためです」
岸本は冷たく遮った。
その言葉で、高坂は完全に黙った。
自分が今まで使ってきた言葉。
“組織のため”。
それが今、自分に返ってきた。
榊はその様子を静かに見ていた。
感情はない。
同情もない。
ただ、崩壊の手順を確認しているだけだった。
高坂はふらつきながら扉へ向かう。
出ていく直前。
振り返り、榊を睨んだ。
「……あなたみたいな人間、いつか絶対破滅する」
榊は少しだけ笑った。
「もうしてますよ」
高坂が去る。
重い扉が閉まった。
非常階段に静寂が落ちる。
遥は小さな声で言った。
「……終わったんですか?」
榊は首を横に振る。
「始まったんですよ」
「え?」
榊はスマホ画面を見せる。
SNS投稿予約。
閲覧設定――“公開”。
その横には、添付予定ファイル。
録音データ。
勤務表。
内部資料。
遥の顔が青ざめる。
「ほんとに投稿するんですか……?」
「病院次第です」
その時だった。
榊のスマホに、新しい通知が入る。
差出人不明。
添付ファイルあり。
タイトルは一行だけ。
――“三年前の自殺の件、まだあります”
榊の目が初めて細くなる。
ファイルを開く。
そこに映っていたのは。
病院の霊安室から運び出される、一人の若い看護師だった。




