第30話 【対価】
受話器越しの声は静かだった。
怒っていない。
焦ってもいない。
それが逆に不気味だった。
榊真司は防火シャッターを見つめたまま答える。
「試してみますよ」
修司が小さく笑う気配。
> 『お前、昔からそうだな』
ノイズ。
遠くで誰かの話し声が聞こえる。
修司はどこか別の場所にいる。
だが病院全体を見下ろしているようだった。
> 『玲奈を連れ出しても意味はない』
榊の目が細くなる。
「意味があるかどうかは、こっちが決めます」
短い沈黙。
そして修司が言った。
> 『真司。“内部告発”っていうのはな、正義じゃない』
遥が思わず顔を上げる。
修司は続けた。
> 『壊す行為だ』
その言葉に、榊は何も返さなかった。
修司の声は穏やかだった。
だが重い。
> 『お前、自分が流した資料で閉鎖された病棟、覚えてるか』
榊の表情がわずかに動く。
> 『辞めた看護師は?』
>
> 『搬送先がなくなった患者は?』
遥が息を呑む。
それは綺麗事では反論できない話だった。
修司は続ける。
> 『だからお前は、最後まで壊しきれない』
沈黙。
榊は受話器を握ったまま言う。
「……兄貴は逆ですね」
> 『何?』
「壊しても、何も感じない」
数秒。
初めて。
修司が少し黙った。
その沈黙だけで、榊は少し目を細める。
完全無敵じゃない。
感情がないわけでもない。
ただ。
切り離している。
修司は静かに言った。
> 『真司。お前は外にいる限り、ずっと同じことを繰り返す』
> 『暴いて、壊して、現場だけ疲弊させる』
玲奈の表情が曇る。
修司は最後に言った。
> 『本当に変えたいなら、内側へ来い』
通話が切れた。
研究室に静寂が落ちる。
誰もすぐには話せない。
遥はようやく理解し始めていた。
榊真司は、
“敵”として狙われているだけじゃない。
“勧誘”されている。
それが一番怖かった。
その時。
病院全体にアナウンスが流れた。
> 『システム障害は復旧しました』
>
> 『ご迷惑をおかけしました』
まるで何事もなかったみたいに。
遥は寒気を覚える。
この病院は、
また通常運転へ戻ろうとしている。
高坂が死んで。
片桐も死んで。
未承認薬まで出てきたのに。
それでも組織は回る。
玲奈が静かに立ち上がる。
「……時間がないわ」
柴崎が振り向く。
「どこ行く」
「私は別ルートで出る」
「一人でか?」
玲奈は少し笑った。
「慣れてる」
その笑いは寂しかった。
榊が聞く。
「また連絡できますか」
玲奈は答えなかった。
代わりに小さな紙を机へ置く。
住所。
施設名。
そして最後に一言。
> “次はここから始まる”
遥がその文字を見る。
介護施設だった。
榊も気づく。
修司が言っていた“次”。
もう始まっている。
玲奈は研究室出口で一度だけ振り返った。
「真司くん」
榊が顔を上げる。
玲奈は静かに言った。
「修司は、あなたを本気で必要としてる」
沈黙。
そして。
「だから気をつけて」
玲奈は暗い通路へ消えていった。




